欲望を買う男【前編】

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 「ずいぶんと疲れた顔をなさってますね」

 

 男はそう声を掛け、隣りの席に腰を掛けた。細くてひ弱そうな体つきをしていて、一見知らない人に声を掛けるような種類の人間には見えなかった。白井は適当に会釈をして机上のグラスを見つめた。

 

 「私も嫌なことがありましてね、良かったら1杯奢らせてください」

 「え、いいですよ。そんな初めての人に奢ってもらうなんて……」

 「話し相手が欲しいのですよ。ダメでしょうか?」

 男は声をすぼめて申し訳なさそうに言った。

 「話は聞きますけど、奢りはいりません」

 「ありがとうございます。素敵な方ですね」

 

 男は表情を緩ませ、いま出会ったばかりの白井に身の上話を話しはじめた。

 歳は30半ばで中小企業の平社員であること、会社でも家庭でも馬鹿にされて居場所を求め酒場を彷徨っていること、女手一つで育ててくれた母親がつい最近他界したことなど、暗い話を明るい表情で話す男が、白井には大そう哀れに見えた。

 

 男は時どき、ぐいっと酒を口に流しいれ、笑顔の休憩なのか俯いてため息を漏らしている。そんな男を見て、いくらか自分のほうが幸せだと思った白井は、男の話に頷きながら男の不幸には至らない程度の暗い話をしてみた。

 

 「いやぁ、素敵な方に出会えて嬉しいですよ」

 「いいえ、こちらこそ」

 「お礼にお渡ししたいものがあるのですが、よろしいですか」

 「え?」

 

 男はビジネスバッグからそれを取り出した。

 茶色い小包のそれは、手のひらからちょうど溢れるくらいの大きさである。

 「いい夢って見てますか?」

 「夢、ですか」

 「寝てみる夢のことですよ。良い眠りにつけてますか?と言ったほうが良いですかね」

 

 男は小包を胸のあたりで持ちながら、笑顔で続けた。

 「私は夢を売っているのです。でも、あなた様には特別にタダでお譲りいたします」

 白井は男の言っている意味がいまいち理解できなかった。

 「いい夢は毎日に活力を、生きるエネルギーを与えてくれます。つまらない日常に光を与えてくれます。今までの自分が嘘だったみたいに――」

 「ちょ、ちょ」

 白井は男の言葉を遮る。

 

 「そんないい物を何でくれるんですか?」

 「あなた様が素敵な方だからです」

 「いやいや……おかしいですって」

 白井は疑心暗鬼になって、男に訝しげな表情を向けた。。男はしばらく白井と見つめ合った後、諦めたように笑いだした。

 

 「ふふふっ……ふははは」

 「なに笑ってるんですか」

 「ははは……いやぁバレました、さすがですね」

 「ほら、やっぱり怪しいものな――」

 「夢を広めたいのですよ。正直に言うとね」

 男は笑うのをやめ、白井を真っ直ぐ見つめた。

 

 「いい夢は素晴らしい、本当に嫌なことを忘れさせてくれるのです。私が売っている夢は、買った人の望みが叶う夢を見せることができます。日ごろ欲しているのに満たされない、そんな夢をお金で買うことが出来るのですよ」

 「でも、夢、なんですよね?」

 「衝撃の強い夢は余韻を現実世界に残してくれます。望んでいる夢を見ることは生活を豊かにさせてくれるのです。事実、購入なさった方のリピート率は100%ですよ」

 どうせ1人中の1人だろうと白井は思った。そしてその1人が男自身なのではと。

 

 「まぁ、そんな代物がタダなわけですから、一度お試しなさってみても……」

 「うーん……」

 「お願いですよ、1回お試しいただくだけでいいんです」

 引き下がらずに頭まで下げる男に、白井は負けるように小包を受け取った。男は嬉しそうに白い歯を見せ、絶対に後悔はさせないと、鼻息を荒くしながら言った。結局のところ飲み代は男が全額出すことになり、2人は店を出て別れた。

 

 

 

 

 白井はさっそく夢を使ってみることにした。

 最初は乗り気でなかったものの、男があまりにも真剣に“夢”を押し売りすものだから、気になってしまった。小包を開けて、その中身にたじろぎながらも使ってみた。そして布団にくるまってすぐに夢の世界に引き込まれていった。

 

 ――女?

 しかも1人じゃない。1、2、3……

 女は数える限り7人は居る。

 生温い感覚が熱気とともに耳を伝う。

 全身の毛が逆立つように体は震え、間髪入れず生温い感覚がいたるところを襲う。そして色っぽい芯のない吐息交じりの声が、真っ白な空間を支配した。

 「あぁ、だめだ……」

 漏れ出た情けない低い声は、女の酔ったような声に埋もれていった。

 

 白い光が視界を覆いつくす。暫くするとぼんやり光は晴れていって、灰白色の天井を映し出した。

 「あぁ……」

 いつの間にか寝てしまったのだろうか。

 白井はベッドから起き上がり、会社に行く支度を始める。歯磨きをして顔を洗って、家を出る。外は雲ひとつない快晴だ。駅まで続く一本道をただひたすらと歩いていく。だが、時どき下着の生地が引っかかって痛い。

 

 白井の興奮は収まらなっていなかった。かといって、欲求が全面に出ているわけでは無く、昨夜の淫夢の満足感が現実まで糸を引くように続いている感覚だった。白井はこの日、1日じゅう昨夜の夢の余韻を味わいながら過ごした。

 あの男の言っていることは本当だったのだ。

 ――1回お試しいただくだけでいいんです

 

 白井は気がつくと昨日の酒場まで、男に会いに行っていた。

 「最高でしたよ、夢。あなた一体何者なんですか!」

 「それは良かった。お気に召していただけましたか」

 男は昨日の帰り際のように白い歯を見せて笑った。

 「望みが叶う夢、見れましたよ。ま、お陰様で仕事は手付かずでしたけどね。はは」

 「それはそれは……」

 

 男は席を立つ。

 「もう帰るんですか?」

 「今夜は他の場所に夢を売りに行くのですよ」

 男は白井に目を細めて会釈をして、店を出ようとする。

 「ちょ、ちょっと」

 「ん?どうかしましたか?」

 「売ってください」

 

 初めからこの目的で男に会いに来たのかもしれない、そう白井は思った。

 「リピート率100%、崩したかったんですけどね」

 「ふふ……お買い上げありがとうございます」

 白井は金を払って昨日と同じ小包を受け取った。

 ひとつ想定外だったことは、思っていたよりも夢は高かったことだった。食事にも洋服にも掛けたことが無いくらいの高い金を、躊躇しながらも欲望に引っ張られるようにして払った。

 

 

 

 

後編へつづく