今日も雨が降っている。
昨日の雨が乾かないうちに、しとしと降る雨は町じゅうを濡らした。そんなモノクロの町模様とは打って変わって、僕の心は弾んでいた。なぜなら、雨の日には決まって嬉しいことが起きるからだ。
「こんにちは」
いつものように、僕の横から優しい声がした。耳をくすぐる高い声。
形を持たない声の主は、ほんのりと暖かいような柔らかいような気を纏い、僕のほうを見ているようだった。
「今日も雨だね」
「嬉しいわ。続けて会えるなんて」
そんなこと、僕も同じだ。いや、嬉しいなんて言葉じゃ足りないくらいだ。代わる言葉が見つからない中で、じんわりとした熱さだけが僕の身を帯びていく。その熱さで体がとろけてしまいそうで、歩く速度を遅くする。
昨日もそうだった。会ってから、雨が止むまで、ずっとそうだった。
僕が足を止めて空を見上げた。墨で描いたような重たそうな雲が、青空に蓋をしている。まだ当分は、晴れそうにない空模様だった。
――どうか夜まで、遅くまで、止みませんように。
「ちょっと」
「ん?」
「どうしたの?いきなり止まって」
僕はゆっくりと、再び歩きはじめた。
「お祈りしてたんだ」
「お祈り?お空に神様でもいるの?」
「……僕にとってはね」
気のせいだろうか。雨が降っている日の雲は、その向こう側に本当に神様がいるんじゃないかと思ってしまう。
「……わたしにとっても、そうかも」
「気が合うね」
「そうね」
僕はとろけそうな体に力を込めて歩く。無彩色の地平線に向かって。
いつになっても一緒に歩くのは慣れない。むしろ、最初出会ったころよりも緊張は高まっているように感じる。初めて出会ったころを思い出しながら、体の中心で湧き上がる何かを制した。
あの日は、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。
あらゆる音が雨音にかき消される中、突然耳元で囁かれたような気がした。いま思えば、あの時から、優しくて耳を撫でるような声をしていた。
「こんにちは」
今日と同じで、「こんにちは」と返すだけでは物足りない、素敵な声だった。
雨に邪魔をされながらも、僕はその声の主を探した。右に左に、前に後ろ。挙句の果てには上や下までも首を動かして探した。どうしても見つからずに狼狽えていると、今度はその存在を主張するような強い声が聞こえた。
「こっちよ、こっち」
僕は右を向いてみた。
「こ……んにち……は」
「見つけてくれた?」
見つけた――ような気がした。そこにあったのは、川の向こう側に建てられたビルしかなかった。でも、なんとなく、目の前に立っていることが分かった。どんなに目を凝らして見ても、上から下までを見下ろしても、実態が見えることは無い。まるで限りなく透明に近い水蒸気がそこにあるような気がした。そして、ぼんやりと消えそうな気配を放ちながら、声の主は僕のことを見ていたのだ。
「ひとりでお散歩?」
「あぁ……うん」
「じゃあ、一緒にお散歩しましょ」
見ず知らずの相手に掛けるような言葉では無かった。だが、もちろん僕には心当たりがない。
「やっと会えたわ」
それでも、その声はまるで僕との再会を喜んでいるようだった。
僕は必死に記憶を引っ張り出してみたが、やはり思い出せなかった。思い出せるわけが無かった。ずっとひとりぼっちだった僕に、誰かに話しかけられた記憶なんて無い。
ぼうっと立ち尽くす僕に、声がかかる。
「行かないの?行こうよ」
「……そうだね」
僕たちは霧雨が降るなか、延々と真っ直ぐに伸びる土手をゆっくりと歩き出した。
不気味に思わなかったわけではない。ただ、ひとりぼっちの散歩に比べたら、得体のしれない誰かと歩いたほうがいいと思った。
青い網に囲まれた高架線の手前で、川へ下るように敷かれた階段に腰を掛けた。
無数に降り注ぐ霧雨が原っぱに溶け込んでいく。
「わたしはもうちょっと強い雨のほうが好きかな」
「じゃあ、今日は」
「ちょっと物足りないかも」
まるで僕に誰かが寄りかかっているような、呟いたような声だった。ふと、隣りを見てみるが、やはりそこには何もない。
「君は?」
「……え?」
「どんな雨が好きなの?君は?」
おそらく上の歯が薄っすらと覗けるような、笑いを含んだような声で聞かれる。
「うーん、確かに物足りないかも」
「だよねぇ。じゃあ、おとといの雨は散歩が気持ち良かったんじゃないの?」
「……そうだな。ちょうど、良かったかな」
霧雨はその粒を大きくしていき、いつの間にか芯の強い雨になった。
川の嵩は僅かに増して、土色に濁りはじめた。
向こう側に並んで建つ家々には、ぽつぽつと灯りが点いた。
そうなると、雨粒は徐々に小さくなり、遅くなり、肉眼で確認できな程の小雨になった。
紺色に染まった空に浮かんだ重たい雲は、ところどころに白い光が包まれている。まるで雨上がりの準備をしているように見えた。
「そろそろ……かな?」
元気の無さそうな声がする。
もう何時間、ここに座っていたのだろうか。暗くなるまで散歩をしたのは初めてかもしれない。
「もう、行くの?」
「だって、雨上がっちゃうんだよ。見てよ、空」
きっと腰に手を当てながら、空を指差して言っているのだろう。僕が「知ってるよ」と返すと、微かな吐息が聞こえた。
「……またね。またお話ししようね。逃げないでよね。楽しみにしてるから」
「逃げるわけないだろう」
「また雨の日に会お――」
その時、ぷつんと何かが消えた。
僕の隣りには何もない。今の今までと何も変わらない空白の隣りだが、元から何も見えなかったはずだが――。
「……またな」
明らかにそこから姿を消したのが分かった。
僕はゆっくりと立ち上がって、来た道を戻る。帰り道、止みそうだった雨は少しだけ勢いを取り戻していた。
初めて会ったのに、声の主は僕のことを何でも知っていた。雨が好きなことも、雨の日にひとりきりでこうやって散歩をしていることも。
それから、雨が降ると決まって僕の前に現れるようになった。僕はそんな姿かたちの見えない相手に対して、“雨の妖精さん”と名付けることにした。
初めて出会ったあの時のように、僕は土手から川に向かって敷かれた階段に腰を掛けた。
右を見て、それから左を見る。そこには居ない。
「どこだ」
背中ごと捻ってうしろを見る。ぼんやりとした気配が、何もないそこに浮かび上がっていた。僕は階段の端に体を寄せてスペースを開けた。
「ありがとう」
僕たちは横並びになって、雨が落ちる川を眺める。時折びゅうっと吹く風を受けて、河原に生い茂った草木がゆらゆらと躍った。
「妖精さん」
「なぁに?」
「……落ち着くね」
だいたい、いつもやることは変わらない。
こうやって川を眺めて、時どきくだらない話をして、気が付いた時にはとんでもないくらい時間が経っている。そして雨が弱まってくるとお互いに焦り出して、憑りつかれたように言葉を連ねるんだ。
「ずっとこのままでいたいなぁ」
「わたしもよ」
「でもさぁ」
僕は遠くの空を指差した。
「向こうの空が明るいんだよね」
鼠色の雲には、その向こう側に太陽の気配を感じさせた。しとしと降り注ぐ雨も、幾らか弱まってきた気がする。せっかく会えたというのに、もう終わりの時間が訪れるのだろうか。また、いつ降るか分からない雨を待ち続けなければならないのだろうか。
「嫌なこと言わないでよ。もう」
「あ、ごめん。別にそういうつもりじゃ……」
「わたし、今すごく楽しいんだから」
「そんなの、僕だって一緒だよ」
きっと僕は妖精さんに負けないくらい、今この時間を大切に過ごしたいと思っている。だからでこそ、五感は研ぎ澄まされ少しの違和感ですら見逃せないんだ。鼻を抜ける空気のにおいは、雨上がりのときに怖いくらい似ているんだ。
「雨が上がったらひとりぼっちになるのよ。だから、余計なことは考えないの」
「僕も、同じだ。ひとりぼっちだ。だから余計に気になっちゃって」
「ひとりは寂しいものね」
「あぁ」
思いを共有しているだけで、なんでこんなに嬉しいのだろう。ひとりぼっちが寂しいなんて、誰が聞いても当たり前のことを聞いただけなのに。
「わたしにとってはね、君しかいないのよ」
「そんな……唐突すぎるよ」
「本当のことじゃない。分かってるでしょ?」
勝手に決めつける妖精さんの言葉は、しっとりと僕のなかに溶け込んでいく。この瞬間にいつも僕は妖精さんから目を背ける。不思議な説得力があるその言葉に、情けないくらい呆けた顔をしていることに気が付くのだ。
背けた視線の先に、弱まった雨が一定の間隔で降り注いでいるのが見える。それはまるで1枚の絵を見ているようで、この世界そのものに感じられる。
「僕たちってさ」
「うん?」
「いつもここに居るね」
「そうだね」
「街に出ればさ、もっと明るい場所がいっぱいあるのにね。賑やかで華やかで空の色なんて関係ない場所がさ。なんか、僕たちってやっぱりおかしいよね」
「そうね。さすがひとりぼっちよね。でもわたしたちには私たちの世界があるんだから、わたしたちが幸せならそれでいいわ」
「はは……そうかもな」
「それにさ」
妖精さんの気配がぐんと空に伸びる。
「せっかくの雨だもんね。街なんか、もったいない」
さっきの僕みたいに、指を差しているのだろう。
「同感……ふふ」
「えへへ」
こんな、何でもない時間が幸せだ。僕は今、きっと情けないくらいに目じりを下げて笑っている。
そして妖精さんも、きっとそんな顔をして笑っているのだろう。
やがて遠くの空に浮いていた、光を籠らせた雲が上空までやってきた。
「そろそろかなぁ」
空から絞り出したような雨がまばらに落ちていた。無意識にため息が漏れて、僕は妖精さんのほうを見る。そこに見えたのは、妖精さんを突き抜けた向こう側で燃え上がるオレンジ色の炎だった。
「綺麗よね」
妖精さんは細い糸のような声で言った。
「あぁ、綺麗だな」
それから妖精さんは、もっと細くて千切れそうな声で言う。
「でも、終わっちゃうね」
「あぁ、終わっちゃうな」
これほど分かりやすい1日の終わりなんて、果たしてどこにあるのだろうか。俗世間と僕らはかけ離れた場所にいる、そう思っていたのに。日没と雨上がりが今、重なろうとしている。
1日の終わりとは、こんなに寂しいものだっただろうか――。
「大丈夫。雨なんて、いずれまた降るわ」
「……そうだな」
僕はやけに重い体を立たせて、穏やかになりつつある空を見る。そして笑ってみた。どうせ雨なんてすぐ降るんだろうと。
「また今度だぁっ」
腹から出した大きな声は空に吸い込まれるように消えていく。
「ふふふ……また今度、いっぱいお話しましょうね」
妖精さんは小さく笑って言った。そして、
「元気でね――」
さっと、一切の気配が消えた。元気でね、そう僕も心の中で呟いてみた。妖精さんがいた場所に手を置いてみると、心なしか温かさを感じられた。
ついさっきまで、何秒か前まで隣りで笑っていたのに、今はひとりぼっちでいるなんて半ば信じられない気持ちになる。でも、いい加減に慣れろよ、と自分を叱った。
名残惜しい気持ちを殺して歩き出した。
「雨が止む前に帰ろう」
明日は降ってくれるかな――そんなことを考えていた。
土手を傘もささずに歩いている人は、ひとりも居ない。それもそのはずで、この前のときよりも、雨粒は勢いよく地面を打ち付けていた。
――いっぱいお話ししましょうね。
去り際の妖精さんの言葉が何度の頭の中で再生されていた。それが僕のエンジンになり、軽やかに土手を突き進んでいた。足は地についていないみたいだった。遠くにあった青い網に囲まれた高架線はもうすぐ先だ。
いつも、だいたいこの辺りで優しい声がする。
「こんにちは」
そう、こんなことを考え始める頃に、決まって現れるんだ。
「こんにちは」
颯爽と現れた妖精さんは、いつものように僕の隣りに並んだ。ふわふわと空気中に浮かんだ妖精さんの気配は、上がったり下がったりしてどこか落ち着かないように見える。そして時どき居なくなったと思えば逆側にひょっこり現れたり、背中にぴったり付いていたり、小さい子どもの動きそのものだった。
僕たちはいつもの階段に腰を掛けた。そして妖精さんもやっと落ち着いたのか、静かに僕の隣りに身を置いた。
「はは……元気だね」
「わたし?」
「そうだよ」
「元気じゃない。わたしは元気じゃなかったよ」
優しい声は少し濁った。
「なんで?」
「なんでって……当たり前じゃない。いったい何日間晴れが続けば気が済むのかしら。もう消えてしまうかと思ったわ」
「妖精さん……だもんね。大変だったよね」
確かに妖精さんの言う通りで、この前に会ったときよりも今回はさらに間が空いていた。
「もうっ、地球は一体どうなってんのって話。それでやっと雨が降ったと思ったら、この静まりよう。みんな馬鹿じゃないかしら。雨が降らないと地球は生きていけないんだからね。つまり、あんたたちが生きていられるのは雨のお陰なんだよ」
余程晴れ続きだったのがストレスなのか、怒気が混じった言葉は止まらない。妖精さんはふわりと宙に舞い、僕の真上で声を張った。
「ああ太陽なんて大嫌い!」
淀んだ雲に支配された空から、太陽は見えない。
「まぁまぁ、太陽が無くても大変だからさ……」
「そんなこと分かってるわ」
妖精さんはふわりと僕の隣りに戻る。
「ま、ま、せっかく会えたんだからさ」
目が合っている気がして、僕は隣りに視線を送る。すると、妖精さんの気配はみるみるうちに萎んでいった。
「ごめんなさい」
打って変わった蚊の鳴くような声が耳をくすぐった。いいんだよ、と肩に手でも回して見たかったが、声の主を見た途端にその姿を再認識する。彼女は妖精さんである、と。
「いいんだよ」
とりあえずありきたりな言葉をかけてみた。しかし、妖精さんからの反応が見られない。じっとその気配を覗いてみるが、動くこともせずにただ僕のほうをぼうっと見ているように感じる。まさか僕は見透かされているのだろうか。
掴みどころのない不安が頭を過ぎる中、2秒、3秒と時が過ぎる。そして先ほどと変わらず蚊の鳴くような声で妖精さんは呟いた。
「寂しかったあ……」
「あ、ああ」
突然のことに言葉が詰まる。そんな僕が面白かったのか、妖精さんは笑いを含ませたような声で言う。
「ふふ……君は? 寂しかった?」
「当然だよ。こんなにしれっとしているけど」
「あはは……」
前方には雨が溶け込んでいく川が見える。それをぼんやりと見つめながら、やっといつもの僕たちらしい空気が戻ってきたと感じていた。
「わたしもあなたもお互いしかいないものね」
「あぁ」
そうだ。僕には妖精さんしかいない。そして妖精さんにも、有難いことに僕しかいない。不意に呟かれた言葉は雨と一緒に身に沁み込んで入ってきた。そして僕は顔を上げて、雨粒が顔に降り注ぐのを楽しんだ。
雨は弱まる気配を見せず、川の嵩は増してひどく濁っていた。視界は夜を感じさせるほど暗くて、雨音がばちばちと地面を打ち付けている。そんな雨の中、傘を差さないのはやはり僕だけのようで、川の向こう側の土手には傘をさして歩く人がちらほらと見えた。濡れないよう必死になって体を精一杯丸め込んでいる。
隣りを見てみると、妖精さんも同じほうを眺めているようだった。
「あのさ、なんであんなに濡れないよう必死なんだろうね」
「わたしに聞かないでよ」
僕は、なんて頓珍漢な質問をしたのだろうと思って、笑ってしまった。そんな僕を見て妖精さんは「もうっ」と口調だけ怒ったように見せて笑う。
その笑い声に腹の中がくすぐられた気持ちになる。
「妖精さんの笑い方ってなんか可愛いよね」
「んふふ……なによそれ、初めて聞いたわ」
「いや、前から思ってたよ」
「うーん、多分だけど、いっぱい笑ってきたから笑い方が上手になったんだと思うよ」
そう言っている今も、きっと笑顔なんだろう。
僕はその笑顔が見たくなって、妖精さんに聞いてみた。
「妖精さんってどんな顔で笑っているの?」
「どんなって……そりゃあ楽しい顔で笑ってるわ。くしゃくしゃにしてね」
「へえ……」
「なによ」
「見たいなぁ……妖精さんの笑ってる顔」
「無理でしょ」
思っていたよりも、ずっと淡々とした返事をされた。わたしも見せたいわ、とか言うんじゃないかと思っていただけに、頭の中は一時停止状態になる。
何かマズイことを言ったのだろうか。不意に心配が巡った。
「ごめん」
「え?」
「いや、何かマズイことでも言ったのかなって」
「ふふっ……どうしたのよ。いきなり」
ちぐはぐな会話が続く。いまいちピンと来ていない僕だったが、妖精さんは変わらず、何でも分かっているような口ぶりだった。
「……分かってるでしょ?」
そしてその気配は少し大きくなった。
「わたしだって顔が見たいわ。あなたがどんな顔してるか気になるもの。でもそんなことは言わないのがルールだわ」
「え?妖精さんも?」
「見たいに決まってるじゃ――」
「そうじゃなくて!」
僕は妖精さんに顔をぐいっと寄せた。
「僕のことが見えないの?」
寄せた先にある気配はしゅんと小さくなって元の大きさに戻ってしまった。そしてしばらくの間、黙り込む。
「妖精さん?」
「え、ふざけてるの? あなたの顔なんて見たことないわよ。当然じゃない」
当然じゃない、とはどういう意味なのだろう。
僕には分かった。妖精さんがぽかんとした顔をしていることが。妖精の世界では僕のことが――つまりは人のことが――見えないことは常識なのだろうか。僕は道に迷った子どものようにたじろいでしまった。
そんな子どもに呆然とする妖精さんから、ゆっくりと目を逸らす。目の前の濁流に視線を戻して、頭の中の整理を試みた。しかしこれといった結論は出せずに、時間を垂れ流して過ごしていることに気が付く。
僕と妖精さんはしばらくの間、言葉を交わすことなく過ごして、ようやく妖精さんが口を開いた。
「今日の雨はどう? ちょうどいい?」
「……あぁ、そうだなぁ。妖精さんは?」
「やだ。忘れたの?」
「……覚えてるよ。きっと今日はちょうどいいんだと思ってた」
妖精さんは微かな笑い声を吐息に混ぜた。
ふと見上げた空の色に笑顔がこぼれた。だから空を指差して言った。
「雨、止まなさそうだね」
「まっくろ……ふふっ」
雲に支配された空では日没が分かりにくいが、おそらくもう陸のどこかではオレンジ色の太陽が沈むころだろう。みるみるうちに暗くなっていく空を見ながら、あははと小さく笑った。少し遅れて妖精さんも、ふふっと笑う。何度か繰り返して、時どき笑い声が重なって、言葉のない会話を僕たちは楽しんだ。
「1日が終わらないな」
「ほんとよね」
たとえ空から光が失われようが、雨が止まない限り1日は終わらない。なんだかひとりぼっちにぴったりだ、と思うと無性に可笑しくなってきて、収まりかけた笑いがまた込み上がる。
「なぁに? まだおかしいの?」
「はは……ごめん、なんか面白いんだもん」
夜の雨は、切ないような香ばしいような故郷のような、目を瞑って嗅ぎたくなる匂いがした。僕は時どき、雨と妖精さんのどちらに甘えているのか分からない声を出した。それはまるで猫だっただろう。
雨が止んだのは夜が真っ黒になってからだった。
黒煙のような雲に町は圧迫されて、人々は町から追い出されてしまったのだろうか。そんな間抜けなことが考えられるくらい午後の町は空っぽだった。
「これは? どう?」
「ちょっと強すぎね」
「僕も思った」
まるでピストルから飛び出た弾丸が降っているみたいだ。ごおごおと音を立てる川は巨大な生き物が体をくねらせながら泳いでいるようだった。ここまで天気が悪いと、妖精さんの薄っすらとした気配はさらにぼやけ、小さく萎んでいる。
僕も妖精さんみたいに萎んでしまっているのだろうか。萎んだ自分の姿を想像してみたが、恥ずかしくなり首を振る。
「夜みたい」
「だな」
小さな気配はゆっくりと僕の肩に纏わりついた。
ばちばちと地面に叩きつけられる雨の音だけが、町を支配する。だが、その音はもう僕を素通りしていくだけだ。肩、首、背中とその居場所を変える妖精さんのせいで、五感の全てが持っていかれた。
「いつまで降ってるかなぁ」
「さ、さあ……」
僕の頭の中はいっぱいだった。
それなのに妖精さんは僕にくっついたまま、甘えたような声を出した。
「強い雨はすぐ止んじゃうから嫌いよ」
気の利いた言葉が出てこない僕は、無理矢理「そうだね」と相づちを打つ。その声もこの雨じゃかき消されているかもしれなかった。僕たちの会話はぴたりと止み、雨に打たれるだけの時間が続いた。
弾丸のような雨は、緩めに出したシャワーのような雨になった。それでも町はまだ空っぽのままだ。妖精さんは僕の肩にくっついたまま、ぽつりと言葉を落とす。
「止んじゃうかなぁ」
「まだ早いよ」
「でもさぁ、ほら」
妖精さんの気配が空に伸びる。その方向を見てみると、まだまだ淀んだ雲が空を支配している。でも少しだけ、色が違うとこがある。それは元々そういう色なのか、雲の向こうにある太陽のせいなのか、それすらも分からないくらいの色の違いだった。
そして妖精さんが指したのは、まさにその色の違いだった。
「晴れちゃうよ」
「……考え過ぎだよ」
以前よりも、妖精さんは空に敏感になったかもしれない。その理由を僕はなんとなく分かったような気がした。
「ひとりは嫌いよ」
「僕だって」
「まだ消えちゃいたくない」
「まだ消えないよ」
僕は空を指差す。
「……この空はまだ止まない空だ。空が真っ黒になるまで今日は止まない。だから気にしちゃあダメだよ」
「本当に?」
「本当。だからまだ君は消えない」
というよりも、消えて欲しくない。本当は妖精さんの心配よりも、僕自身の心配を拭いたいのかもしれない。まだ十分に強い雨を落とす空に、僕は両手を合わせた。どうかこの雨が続いてくれますように――そう心の中で呟いた。
「まだ雨が止みませんように」
「……え?」
思わず妖精さんを見る。ふわふわとした気配はゆっくりとこちらを向く。「どしたの?」と問うその声は、素っ頓狂だった。2人して同じことを空に願っていたなんて――。僕は身体の中心が熱くなって、操られたように手が伸びていく。
肩だろうか、それとも腕だろうか。触れた先にいる妖精さんに実体はない。それなのにしっかりと妖精さんの感触は指先から全身に伝わった。ほんのりと温かい妖精さんは、まるで全身に血液が循環しているようだった。
「んふふ……」
「あはは……」
僕の腕は妖精さんに引かれ、妖精さんは小さく跳ねながら僕の目の前に身を移す。それから、僕は妖精さんの温かさに包まれていった。耳元では穏やかな吐息がリズムを刻んでいる。姿かたちが見えなくとも、いま僕たちがしていることがハグだということははすぐに分かった。
愛おしい。こんなに愛おしいことがあるものなのか。
「あぁ……幸せだなぁ」
心の声が喉から漏れ出した。妖精さんは吐息だけで小さく笑う。
こんなに愛おしいのに、こんなに僕たちはお互いを欲しているのに、やがて雨が上がれば僕らは離れ離れになる。そんなことが一体なぜ許されるものなのか。このまま僕たちが一緒に居ることが、なぜ許されないのだろうか。
「ずっと一緒に居たい」
「わたしもよ」
「毎日でも会いたいよ」
「うん、うん」
「雨が無くてもこうやって君と過ごしたい」
「そうよね」
「いつでも君と会いたいんだ」
「会いたいわ」
「じゃあ……」
満たされていたはずの心に、ひと筋の闇が差し込んだ。
「……なんで雨の日だけなんだ」
妖精さんの呼吸が、一瞬止まった。
「さっきから、当たり障りのないことしか言わないじゃないか」
「……しかたがないじゃない」
僕は温もりから身を剥がして、妖精さんをじっと見た。
頭の中の何かがぷつんと切れていた。
「会いたいとか、消えたくないとか、好き勝手言わないでくれよ。僕がどれだけ寂しい思いをしていると思っているんだ」
「そんなの、私だって同じよ。何を言ってるの」
「同じなら尚更そうだろ」
「もうっ、さっきから何を言ってるの」
「そっちが何を言ってるんだ――」
妖精さんは僕の声を、未だかつてない太い声でかき消した。
「何が言いたいの」
無意識に僕の言葉は止まった。濁流の乱暴な音が、耳を素通りする。切れた頭の中の何かは、ほんの少しだけ繋がる。でも、一度は湧きおこった感情を殺せるほど、僕は大人ではなかった。
「……会いたいなら会いに来てくれればいい。雨だろうが関係ない。僕たちが会いたければ会えばいい。君はそう思わないのか」
「本気で言ってるの? 無理に決まってるでしょ」
無理に決まってる?なんでそんなに簡単に言えるんだ。
「よくへっちゃらな顔をして――」
「顔は見えないでしょ」
妖精さんは続ける。
「それに会えないのは事実。子どもみたいなこと言わないでよね」
「事実とか、だからへっちゃらな顔して言うなって」
「もう、まだ言い合う気? あなたって嫌な人ね」
「嫌なのはそっちだ……僕は会いたいだけなんだ、雨の日でもなんでもいい、毎日君を感じていたいんだ。それなのに君にその気が無いから……」
妖精さんはふわりと浮かび僕の前で大きくなった。「ははは」と渇いた笑いをひとつ挟む。そして怒気と笑いを半分ずつ含んだ声で言った。
「分かってるでしょ……」
大きなため息が顔に触れる。
「それとも……」
鋭利な渇いた声が僕に刺さった。
「本当に分かってないの?」
冷たい声が頭のなかでこだまする。でも妖精さんが何を言っているのか、やはり僕には分からない。確かなのは、妖精さんには分かるものがあって、それは僕には分からないものであるということくらいだ。
「もう……そろそろ終わりよ」
僕ははっとして空を見上げる。
「喧嘩なんてしてる場合じゃなかったわね」
雨が急に弱まって、雲の切れ間から光が差し込んでいる。「待ってくれ」と僕は言うが、すでに妖精さんの気配はぼんやりと薄らいでいて、湿った空気と同化しそうだった。
「待ってくれよ」
まだ離れたくない。
「雨じゃなくてもいいだろう」
僕はまだ君と居たいんだ。
見えなくなりそうな妖精さんを僕は必死に掴もうとする。だが、僕の指には風を切る感覚だけが残っていった。そこに居るはずなのに、居たはずなのに、僕はもう完全に妖精さんを見失ってしまった。
もう、雨はほとんど降っていなかった。
「今日の天気は?」
千切れそうな細い声がどこからか聞こえる。その声のほうを振り向くと、風に吹かれ波のようにうねる1本の線があった。考える間もなく、それは気配だった。
「……雨だ」
「その前は?」
「雨だ」
「その前は」
「雨だ」
それがなんだって言うんだ。いいから、出てこい――。
僕は消えかかった、蜘蛛の糸のような気配に手を伸ばす。
「世界は晴れだった」
あと少しのところで、手はぴたりと止まる。
「昨日も、その前も」
僕は咄嗟に頭を抱える。大きな釣り針が引っかかったようで、何かが記憶の裏側にべったりと張り付いた。世界は晴れだった?いいや、世界は雨だった――はず。なのに、僕のなかにある何かが青天の世界を認めさせようとする。
「今度こそ……またね」
宙に浮かんだうねった糸はしゅわしゅわと弾ける。空気中に散らばった妖精さんの気配は、空気と同化して、消えていく。
待って、待ってくれ――。
「分かってるでしょ? 妖精さん」
妖精さんは、その言葉だけを残して消えた。
ぽとり、と絞り出したように雫が落ちる。まだ止んでいないのに、かろうじて雨粒は落ちてくるのに、もう妖精さんは帰ってしまったらしい。
深く息を吸って、思い切り吐く。そして、空を見上げた。
雲の切れ間から、太陽がこちらを覗いている。
地についていた足はふわりと宙に舞う。ぼんやりと溶けていく視界のなかで、僕はもう妖精さんを探さなかった。右か左か上か下か、どれが自分かも分からないまま、僕は空気と同化する。
ごめんね。少し人間に染まりすぎたのかもしれない。でも、もう平気だ。
「分かってるから」