至るところで、吹き飛ばされたようにクリスマスムードが消えた。昨日だったか今日だったか、覚えていないが偶然付けたテレビからは、初詣のコマーシャルが目に飛び込んできた。もう世間は、すっかり年忘れムードといったところだろう。
それはこの町も例外ではなく、異様な静けさを音も立てず降りしきる雪が彩っていた。
そんな、静かな年末なのに――。
『年末に女の影が立ってたんだ』
高1の冬休み明けに誰かが言いはじめた噂話は、瞬く間に学校中に広まった。しかもその幽霊とやらが立っていた教室が、僕らが通っていた1年4組のクラスだったというのだから年明けの学校は大騒ぎだった。
誰も得をしない。授業も部活も無いのだから、誰もその真意を確かめようがない。その話によると、クラスメイトが学校の前を通ったときに女の人影が窓際に立っていたらしい。見回りの警備員かもしれないし学校の先生かもしれない。それなのに、どこかの早とちりが幽霊だと騒ぎ立てて、一連の噂が始まったのだ。
僕は1歩ずつ、階段を上がっていく。
夜の学校は、却って耳が疼くくらいに音が無い。あるとするならば、靴下で階段を踏みつける、微かな足音だけだ。キンキンに冷やされたタイルが足底から体温を奪い、痛みが伴ってくる。
2階に上がり廊下に足を進めていくと、非常口を知らせる緑色の灯りが、廊下の突き当たりを示していた。僕は非常口までゆっくりと足を進める。せめてスリッパでも履いて来れば良かったと、後悔をする。誰ひとり居ない校舎の中は、まるで巨大な冷蔵庫のように冷たく、味気ない空気が漂っていた。
廊下の端っこまで歩いた僕は、教室の扉に手を掛ける。非常口の灯りのお陰で、先ほどよりかは幾らか見やすい。がらがら、と如何にも立て付けの悪い音を立てて、扉は開く。さすがは夜の教室、鉛筆で塗りつぶしたように真っ暗だ。でも、電気は付けない。この暗闇の中では、あまりにも目立ち過ぎるから。
僕は机の間を縫うようにして、窓際まで歩く。
いつの間にか雪の粒は大きくなっているようだった。昇降口の辺りの雪が窪んでいるのは、おそらく僕の足跡だろう。もう、足跡はほとんど新しい雪に隠されてしまっている。僕はそのまま視線を上げる。そこは一面が真っ白に染まっていて、校庭の面影は感じない。
でも、真っ暗闇から銀世界を見ているというのに、不思議と輝いては見えない。
校庭の更に先には、僕が歩いてきた町が見える。この学校は小高い丘の上に位置しており、景観は悪くない。そこが――いや、そこだけが自慢だろう。町作りの意識を微塵も感じない、点々と家が建つだけの平地が地平線に向かって続いている。その中のどの家も、屋根を白く染めていた。
静かな夜だった。きっと町を歩いてもここに居ても、温度くらいしか変わらないのだろう。
「こんな静かな年末の夜に学校に来るなんて……」
その幽霊とやらは、さぞ辛い思いをしたんだろう。
クリスマスが終わった年末の夜に――それが26日なのか27日なのかは定かではないが――おかっぱ頭をした女の幽霊が教室に出る。そんなどうでもいい噂は、僕の頭にこびれついて離れない。
かじたんだ両手をポケットに入れた、その時。
がらがら、と鈍い音を立てて扉が開いた。
――誰だ。
咄嗟に振り向くと、心臓が口から飛び出そうになった。
女の影がひとつ、暗闇の中でぼんやりと見える。しかし驚いたのは僕だけでないようで、視線の先の女のシルエットは、振り向いた僕を見て、小さく跳ね上がった様子だった。影は少しずつ、僕との間合いを詰めていく。
僕は唾をのんだ。
ぼんやりとした影に、うっすらと線が見えてくる。
もしかして、
「か……おり?」
影はひと呼吸を置いたように、ぴくっと止まる。そして、ゆっくりと僕に歩み寄る。もう、それは影ではなく、香織であると僕には分かった。
「なに……してるの?」
こっちのセリフだ――そう言おうとするが、止める。
香織はあまりに驚いているのか、開いた口が塞がらないようだった。だが、そんなことはこっちだって同じだ。むしろ僕は、口を開けたら心臓が飛び出してしまうんじゃないかと思って、口が開けられないのだ。
何秒間、僕らは睨めっこをしたのだろう。なんとなく現実を認識しはじめた頃に、彼女は口を閉じて、僕も背中の汗が引いていった。
「……やっぱり幽霊って君だった――」
「冗談よしてよ」
香織はつんとした顔をしながら、僕の横に並ぶようにして窓の外を見た。じっとりと湿ったような髪に、小さな肩に、払いきれていない雪の粒が乗っている。僕は忘れていた寒さに気が付いてしまって、両手をポケットに突っ込んだ。
何か、何でもいいから話さなければ――そう思うが、言葉は頭の中を素通りしていくだけで、掴むことができない。まるで話しかけない理由を探しているかのように、言葉を選別していた。
香織が横にいるなんて――そう考えていると、呼吸が少し浅くなる。それでも、香織の横顔はどこか精悍で、僕のことなんか気にかけていないみたいだ。
「ゆ、ゆき……強くなったね」
「……うん」
ここでなければ聞き取れないくらいの声で、香織は呟いた。
久しぶりに過ごす2人の時間なのに、酸素は必要最低限の量しか与えられていないようだった。深く息を吸おうとしても、腹まで落ちていかない。香織は、深く息を吸えているのだろうか――。
香織はさっきまでの僕みたいに、地平線まで続く町並みを眺めているようだ。何かが反射しているのか、その瞳はどこか潤んでいるように見える。
「……友達は?」
吐息とともに、ぼそっと香織は呟いた。
反射的にその顔を見るが、視線は未だ町の中である。
「……今日はいないよ」
「ふうん」
興味が無さそうな様子だ。暗闇にも慣れてきたのか、香織の表情はさっきよりも幾らか鮮明に見える。無表情のようでどこか虚ろにも見える、ため息が似合いそうな表情を浮かべている。
「その中に」
「ん?」
「本当の友達は何人いるんだろうね?」
変わらないぼそっとした声は、切れ味だけを鋭くさせた。
これは痛い。なんて痛いところを突くんだろう。僕は、反射的に仕返しを試みた。
「香織のほうこそどうなんだよ」
しかし、これは失敗をする。
「少ないよ。でも……少ないけど、人を裏切るようなことはしない」
自分に言われているような気がして、胸に刺さった。
ただでさえ浅い呼吸が、更に浅くなった気がした。
「……そうか」
僕は窓の外を見る。別に窓からの景色を楽しみたいわけじゃない。こんな見慣れた景色、どうだっていい。ただ、僕は、香織がどんな表情を浮かべているのか、それを見るのが怖いだけだ。その表情の下に何があるのか、想像してしまう自分が分かっているだけに。
しんしんと空から落ちてくる雪の粒は、一段と大きくなった。見下ろした先にある足跡は、まだ埋もれていない。と、思ったが、あれはきっと香織の足跡だろう。ぼんやりとした視界の先は定かではないが、その跡はひと回りほど僕の足よりも小さいように見える。
窓を開けようか。やめておこうか。
真っ白い空気を吸えば、少しは楽になるんじゃないか。そう思ったが、腕が動いてくれない。鍵を回して窓を開ければいいだけなのに。目がこめかみに付いているのかのように、180度先にいる香織のことが気になって仕方なかった。
「なんでこんなところにいるの?」
「えっ」
香織の問いかけに、思わず声が上ずった。
やっと僕を見たその顔つきは、思っていたよりも鋭い。後ずさりしそうになるのを堪える。
「……聞いてる?」
「あ、うん」
「なんで、こんなところに、いるの?」
それは――。
胸の奥につっかえていた言葉が、喉元までせり上がってくる。でも、そこから先が出てこない。蓋を破ることができずに、言葉は行き場を無くす。
僕は香織の胸元に視線を落とした。編み目が粗いセーターにベージュ色をしたコート、少し視線を上げると首元で白いマフラーが盛り上がっている。ずいぶんと、大人らしい格好をしている。
制服姿ではない香織に、現実を改めて認識する。
「また逃げるの?」
「……違うよ」
香織がこちらを向いているのが分かる。その顔を、僕は見ることが出来ないでいる。
「もしかして、自分に嘘をついているとか」
違うんだ。
「それとも、それが君そのものだったりして。あの時だって――」
「ごめん!」
嫌な脈動を胸の奥で感じる。
喉に張り付いた蓋は、思っていたよりも軽かった。
「本当にごめん。ごめん……なさい」
しかし、香織の口からは何も聞かれない。
ずっしりと重たい時間が音も立てずに刻まれていく。補足をしようと言葉が脳内を錯綜するのは、きっと「いいよ」とか「気にしてないよ」とか何かしらの色よい返事が香織から返ってくることを期待していたからなんだろう。
「……ははは」
香織は静かに笑った。
僕は俯いた顔を上げて、香織を見る。渇いた表情が目に映る。
「別に、謝ってなんてひと言も言って無いのに……なんで来たのか聞いただけだよ」
「でも……」
「それとも、謝るためだけにここに来てたの?」
香織は窓に背中を向けて、寄りかかる。お腹から吐くように大きくため息をついた。一点を見つめる視線の先には、僕の座っていた席があった。真ん中の列、後ろから2番目――。
クリスマスまでは、僕は幸せだった。1年最後の登校日、その日までは。
はじまりは文化祭の準備に勤しんでいた9月のことだった。生き残った蝉は合唱する力もなく泣き叫んでいた。その頃、僕は毎日のように居残りで作業をしていた。勿論、文化祭実行委員は1人ではないし、実行委員が準備も全て行うなんてルールは無い。
それでも、スクールカースト最下層の僕には、いつも色々な仕事が舞い込んできた。僕自身、面倒なことは避けたい性格であるし、この学校に、学級に、もう何も期待はしないと入学早々決心がついていた。
陽が傾きはじめ、教室に灯りを付けようかと思った。その時だった。
がらがら、と扉が開いた。同じ学年で同じクラスなのに、ひと言も喋ったことのない香織だ。香織はいつもと同じようなつんとした表情を変えずに、最後列の自席まで向かった。机の中から何かを取り出してカバンに入れる。おそらく、忘れ物を取りに学校に戻ってきたのだと思った。
「なにしてるの?」
不意に目が合う。それだけではなくて、言葉まで掛けられるなんて――。
「あ、いや、準備……」
緊張のせいで、言葉の節々が切られた。
どこか取っつきにくい香織は、この学校では珍しい、周りとは群れないタイプの存在だった。全員が左と言ったとしても、自分が右だと思ったなら右と言う。そんな香織には、勿論だが良く思わないクラスメイトも多くいた。それでも我を貫く孤高の存在に、僕は尊敬の念を抱いていたのだ。
僕がなりたくてもなれない、理想の姿に。
――スクールカースト?くだらないね。
僕の悩みなんて、苦しみなんて、香織なら笑い飛ばすんだろう。
「ひとりで準備してるの?」
「実行委員だから、うん」
香織は「ふうん」と口だけ動かしたような返事をして、模造紙の前で膝をつく僕の前まで歩み寄った。
「ポスター?看板?」
膝を抱えてしゃがんだ香織は、僕と同じ目線になった。
こめかみを伝っているのは、何かしらの理由で噴き出した汗だろう。
「聞いてる?」
首を傾げる、その顔を見る。
尊敬していた、憧れていたその瞳は、近くで見るとそんな高尚なものでは無かった。黒くて丸くて、光が反射していて、奥には人の優しさを秘めたような、そんな瞳だ。
いま思えば、あの瞳が全てのキッカケだったのかもしれない。
「洋介くんってば」
もし、良かったら――頭の中で整理する前に、僕の許可を待たずに言葉は飛び出してしまった。
「お願いがあるんだけど――」
一緒にポスターを作ってくれないか、そう言ったのは何故だろう。
「いいよ」
快く、香織が引き受けてくれたのは何故なんだろう。少なくとも僕に、憧れだけでない他の感情が芽生えていたことは間違いなかった。それがこの瞬間に生じたものなのか、元々持っていたものなのかは分からないが。
でも、それから僕らの時間は始まったのだ。
文化祭までの2週間、僕らはほぼ毎日、日が暮れるまで学校に残って文化祭の準備をした。ポスターの作成、折り紙やリボンを使った飾りつけの製作など、互いに意見を出し合いながら順調に進めていった。
香織は僕が思っているよりも、よく笑う女子だった。そして、その笑顔に触れている間に、僕の心臓の位置はだんだんと定位置に下がっていった。
文化祭が終わった日、僕らは誰もいない駅の反対側の公園で祝勝会をした。
「大人になったら、こういう時に酒を飲むんだろうね」
「え、僕の親父は毎日飲んでるよ。別に勝ったような顔はしてないけどなぁ」
香織は右手に持つサイダーをぐびっと飲んだ。
「そんなの人によるに決まってるじゃない。気分壊すようなこと言わないでよ」
「あはは……ごめんごめん」
僕も、彼女の真似をするように右手に持つコーラを飲む。顎の角度を上げると、ここ最近は毎日教室の窓から見ていた紺色をした空が目に入る。達成感を纏った身で見上げる空の色は、心なしか絵に描いたような綺麗さを感じた。
幾らか日が経った頃、それは文化祭が終わって間もない日曜日だった。
僕は初めて制服ではない香織の姿を見ることになった。せっかく定位置で落ち着いていた心臓が、またもや飛び跳ねる騒ぎになってしまった。真っ赤な単色のロングスカートに白いワイシャツを着たその姿は、芯の強さを感じさせる、期待通りの印象を受けたのだ。
小説が好きという香織と、僕は本屋で1冊の本を買い、喫茶店で横並びに座って一緒にページを捲った。活字を読むことに慣れている香織は、当然ながら僕よりも読むペースが速かった。
「ちょっと早いよ」
「え、むしろ遅くしてるんだけど」
いたずらっぽく笑いながら、ページを指先でつまむ香織。「ちょっと待てって」と僕は言うが、ページをつまみながら「早く早く」と急かしてきた。
気が付けば窓の外は真っ暗になっていて、つい数時間前に買った小説はほとんど読み終わってしまっていた。香織イチオシの作家の作品は、小説を普段読まない僕でも十分すぎるほど面白かった。
最後のページを読み終えると、香織は僕の肩をトントンと触った。
「貸してあげる」
差し出された赤いハンカチを見て、はっとする。
ようやく気が付いた左頬を伝う感覚は、大粒の涙だった。
「いいよ」
僕は恥ずかしくなって、ハンカチを手で退けた。手の甲で乱暴に涙を拭って、氷がほとんど溶けてしまったオレンジジュースを飲む。
「……面白かったでしょ?」
「……うん」
悔しいほどに面白かった。香織が涙を流していないことが、僕には考えられないくらいだった。
段々と正気に戻っていく中で、2人揃って同じ本を読むなんて馬鹿みたいだと思うようになり、僕は急いでオレンジジュースを飲んだ。香織は何とも思っていないようだったが、僕に気圧されるようにミルクティーを飲み干して、僕らは店を出た。
それからも僕らは連絡を取り合い、都合がつく休日に2人で時間を過ごすようになった。
肌寒くなり夏の面影が無くなってきた頃、少しばかりの遠出をして話題のラーメン屋に行った。ラーメンは香織の口には合わなかったらしく、「損した」とか「こんなところまで来て」とか、散々文句を付けた。
香織がどうしても観たいという映画を観に行ったときは、あまりに山場のない展開に眠気が襲いはじめ、僕は上映中にもかかわらず眠ってしまった。
「つまんなくてごめんね」
僕の顔も見ずに、香織は唇を尖らせて言った。
僕も香織も、互いに大きく共感することや共通の話題などは無かったが、一緒に居る時間はいつも短く、充実したものになっていた。
そして何より忘れられないのが、僕が財布を無くしたあの日のことだ。
僕は、電車で片道2時間はかかるであろう町まで、ラーメンを食べるためだけにひとりで出掛けていた。目的のラーメンも食べ終えて帰ろうかと切符を買おうとしたとき、財布が無くなっていることに気が付いたのだ。
『ちょっと待ってて』
まさか本当に来るなんて思っていなかった。
でも、
『あと1時間』
香織は逐一、連絡を入れた。
『あと30分』
空はオレンジ色に染まっていた。これじゃあ帰る頃には完全に夜だろうに。
こんなところに来たところで、何も良いことなんか無いのに。
『ついた』
香織は、僕を見つけて大きく手を振ったのだ。
改札を抜けてくる香織に湿った表情は無く、カラッと晴れた笑顔を僕に向けていた。
「なんか、まじでありがとう」
「困ったときはお互い様でしょ」
そう言って、香織は僕に背中を向けて、すぐさま券売機に5千円札を入れた。
高校生には高すぎる切符を2枚買って、再び僕のほうを見る。
「今度は無くさないようにね」
僕は胸元に差し出された切符を、人差し指と親指で力強く受け取った。
ホームに向かう途中、電車で揺られている最中、僕は何度も「本当にありがとう」と言った。香織はその都度、歯を見せて笑った。
「困ったときはお互い様でしょ」
僕は何もしてあげられていないのに。
電車賃だってまだ返してなかったのに。
それなのに――。
「机の中のもんだせよ」
僕の机の中にある1通の手紙を、何故かクラスメイトの彼らは知っていた。クリスマスツリーとトナカイとサンタが躍るように描かれた、華やかな封筒に入った1通の手紙を。
「生意気じゃね?お前」
嫌な予感は以前からしていた。
何せ、スクールカーストの最下層である僕が、クラスメイトに恋をしているのだから。そのことを誰も気が付かないと思うほうが、無理はあった。
「つーか、お前よぉ」
それに。
「どうせ愛しの相沢から貰ったんだろ」
周囲と群れることをせずに孤立している、相沢香織がその相手なのだ。
それでも、ただバレるのではなくて、クリスマスの日にこっそり貰った手紙でバレてしまうところが僕の運の悪さだ。
「おら、出せよ」
「い、いやっ」
机の前に立って、なんとか手紙を守ろうとするが、限界は近い。
鋭い音とともに、視界が一瞬暗くなった。顔を見上げると、唾を飛ばしながら笑うクラスメイトが居た。右の頬がじんじんと痺れてから、やっと僕は暴力を受けたことを認識した。
奴らに目的はない。香織が好きなわけでも、僕のことが心底憎いわけでも無い。奴らにとって僕は、ただのからかいの材料でしかないんだ。だから――。
屈するわけにはいかないのに。
「おら、破り捨てろよ。そんなダッセェ手紙よぉ」
僕は、いつの間にかその手紙を手に持っていた。
気が付くと、教室をぐるりと見渡していた。渡辺、岸川、田中、矢田部、小林、園部、津村、橋本、森本……。相沢……相沢香織は居ない。
「どこ見てんだてめぇ」
拳が振り上げられた、その時だった。
ぼんやりと現実を認識しはじめた時、指がじんじんと痛みを伴いながら熱を帯びていることに気付く。床を見ると、緑色と赤色と白色の紙が散り散りになっていた。華やかなクリスマスカラーの封筒は、ただのゴミ同然だった。
僕は、香織よりも自分の保身を選んだ。
「こんなもの、いるかよっ」
踏みつけて、思い切り蹴っ飛ばした。
掴み上げて、放り投げた。
「きゃはは、こいつ狂ったぞ」
「やば、サイコじゃん」
涙が込み上げてきて、僕はトイレに走った。個室に入り鍵を閉めて、便座の上で膝を抱えて座った。耳を痛くなるほどの力で塞いだ。涙がこぼれ落ちないように、灰白色の天井をぐっと見上げた。
授業の始まりを告げるチャイムが鳴っても、僕はトイレから出られなかった。
「ごめん」
耳を塞いで聞く自分の声は、無責任の塊のような声だった。
全ての授業が終わった放課後、誰もいない教室でごみ箱を漁った。散り散りになった白い紙はゴミ箱の奥底に沈んでいて、肩までをゴミ箱に突っ込んで拾い集めた。時間をかけてかき集めた白い紙くずを机上に広げてみると、ところどころに丸みを帯びた字が見えた。
パズルみたいにはめ込んで、セロハンテープで繋ぎ合わせる。
「ごめん……」
痛々しい“メリークリスマス”の文字に、滴がぽとりと落ちた。
僕はそれから、香織と言葉を交わしていない。「おはよう」や「さようなら」も、たった一言でさえも。
「本当に悪いと思ってた。だから言おうと思ってたんだ」
香織は相変わらず、僕が座っていた席のほうを見ている。声色も表情も、この場の空気も、渇いたままだ。
「あたしね、友達いなかった。分かるでしょ?」
香織は芯のない声で、話しはじめる。
「だからさ、人を好きになるっていうの?……男の人を好きになるってことが初めてで、本当に訳が分からなくって。必死こいて書いたんだよね、あの手紙」
セロハンテープで繋ぎ合わせた手紙が、胸を締め付ける。
「だから、良かったと思ってる」
「……え?」
「あんな黒歴史、見られなくて良かった。なんて書いたかもう忘れちゃったけど」
「あぁ……」
返す言葉が見つからず、相づちにもならない声を出した。
僕が何にも邪魔をされずにその手紙を読んでいれば、きっと黒歴史にはならなかったはずだ。お互いに、七色の思い出を胸にしまうことができたかもしれないのに。
ダウンジャケットの内ポケットに入れた手紙が疼いた。そう思って上から触れてみると、疼いたのは手紙ではなくて心臓だった。
「じゃあ……なんで」
ふとした疑問が、頭を過ぎる。
「なによ」
しかし、我に返る。
「いや、なんでもない」
見られなくて良かった――そんなのは嘘だ。香織はたぶん、いやきっと、嘘をついている。それは何より、ここに居ることが証拠になる。僕と同じ、年末の静かな夜に教室に来ることが。
「なんでもない、けど……本当に悪いと思ってる。僕のしたことは許されることじゃないと思うから。本当にごめん」
「しつこいなぁ」
香織は髪を耳にかけて、僕の目を見た。
「10年も前の話、謝られても許すしかないじゃんよ」
白い歯が暗闇の中で、笑顔であることを強調してくれた。
みぞおちがぎゅうっと締め付けられて、鼻がつんとする。「高1だから、12年前だよ」と、ゆっくり言葉を返すと、香織はふふっと息を吐いて笑った。渇いた表情は影を潜めて、そのままの笑顔で僕を撫でるように見た。
「……洋介くん」
名前を呼ぶ、その声に心臓が熱くなった。
12年前の記憶の中の香織が、目の前の香織に溶け込んでいく。
「毎年、ずっと来てるの?」
恥ずかしい限りだが、隠す必要はない。
「卒業してから、ずっと――」
がちゃん、と遠くのほうで音がした。おそらく1つ下の階、昇降口の扉が開いた音だ。息を殺して耳をすませると、微かに足音が聞こえてきた。見回りだろうか、それとも知らぬ間に通報をされたのだろうか。
「もう行かないとね」
香織は窓に預けていた背中を正す。
やっと会えたのに、やっと謝ることができたのに、まだまだ話し足りないのに。
「不法侵入だからね、犯罪よ」
香織はひとつ、ため息を吐いた。ゆっくり足を進めて入ってきた扉に向かう。
次はいつ会えるのだろうか。次、はあるのだろうか。
――こんな静かな年末の夜に学校に来るなんて。
ふと、香織と会う前に呟いた言葉を思い出した。
「クリスマスが終わった年末の夜」
さぞ、辛い思いをしたのだろう。
「え?」
香織は、ぴたりと足を止める。
「最後に教えて欲しい。高1の冬休み明けから始まった幽霊の噂。あれって香織――」
「さいご?」
僕の言葉は遮られた。そして香織は笑った。
「さいごって何?あたしともう会いたくないってこと?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
固まる僕に香織は歩み寄る。そして、ゆっくりと手を伸ばした。
「せっかく会えたんだから、同窓会しようよ」
手の甲の少しだけ上、袖の部分を香織はぎゅうっと掴んで、歩き出す。あの頃と同じで、触れようと思えば触れられる距離に、香織の手があった。僕らは学校を抜け出して、大通りからタクシーに乗った。
「タクシー代、僕が出すよ」
「え?」
「出させてくれ」
ここから駅までは1時間。電車賃の借りくらいは返せるかな。
「なんで年末の夜なのさ」
「昼もクリスマスも、洋介君に会いそうじゃない」
「もっと早く会いたかったなぁ」