もうひとつのタクシー

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 真っ黒に塗りつぶされたような空だ。そんな空の下で延々と続く枯れ木に挟まれたこの道も黒色に支配されていて、唯一ヘッドライトの光だけが行く先を照らしている。それにしても、運転手の性格なのだろうか、もどかしくなるほどに緩慢な走りだ。

 

「寒いですか?」

 

 タクシー特有の爽快な走りっぷりも無ければ時折恐怖を感じる荒々しさも無い。淡々と転がしていくタイヤの上では、メトロノームのようなリズムをした振動が感情もなく俺の体を揺らしていた。

 

「すみませんね。エアコンがついていないものでして」

「あぁ、そうですか」

 

 おいおい、今時そんなタクシーがあるのか。思わずルームミラーを見ると、定年退職を目前に控えたような皴を刻んだ表情が俺に向けられていた。その皴の数だけ人生を語れそうな、そんな貫禄が外皮から漂っている。

 

「この辺はどうしても寒くてね……」

 

 いや、それよりエアコンだろうに。寒さを言い訳にするのではなく、お客様が快適に利用できる環境を整えていないことをまずは詫びるべきだ。と、思ったところだが、どうもこのタクシーはおかしい。

 タクシーにとって一番大切なものが無いじゃないか。

 

「運転手さん」

「なんでしょう」

「メーター付いてないんですか? いくらか分からないじゃないですか」

 

 おや、と言いそうな目がミラー越しに向けられる。それから運転手はひと際目元のしわを増やして言った。

 

「あははは、お兄さんは面白いですね」

「はい?」

「お代なんて頂いたら、私は罰が当たりますよ、ええ」

 

 何を言ってるんだ、この男は。それが己の目的だろうが。

 

「代金を取らないタクシーなんて聞いたことが無いですよ」

「はあ、タクシーねぇ。確かに目的地まで安全に送り届けるという意味ではタクシーと同じかもしれませんね」

 

 はて、俺はタクシーに乗っているのでは無かったか。いや、タクシーだった。はず。

 少し休みたいと思ったのかもしれない。もやは自分の行動の意図すらもあやふやになってきた俺は窓の外を見る。相変わらず、枯れ木が早送りのように窓の外を横切っていくだけである。そして空は相変わらず真っ黒だ。

 

 なぜこんなにも真っ黒なんだ?

 たしか俺は仕事中にタクシーを捕まえたはずだ。かろうじて地平線に太陽が残っていた夕暮れ時、営業先から会社に戻るためタクシーを止めた。それが一体、何が起きたらこんな夜更けになるのだろうか。だめだ、記憶がない。無機質なダッシュボードもメーターが無い違和感もエアコンが付いていないことも。夜が深まるまでこのタクシーで俺がどのように過ごしていたのかも。

 

「運転手さん……俺、結構寝てました?」

「いいえ?」

「……酒とか飲んでましたかね」

「いいえ?」

 

 両腕に鳥肌が立つ。

 そもそも俺は……仕事中にタクシーなんて拾っただろうか。夕暮れ時にタクシーに乗ったはず、それが最新の記憶であることは間違いない。なのに随分と前の出来事のような感覚が胸にこびれついている。

 

「時間ごと他の空間と入れ替わったみたいだ」

「……はい?」

「運転手さん、俺はどこからタクシーに乗ってるんですかね」

 

 運転手は目を細める。ミラー越しに目が合った。

 

「これはまた、面白い質問ですなぁ」

 

 面白いわけがあるか。不敵な笑みに恐怖よりも怒りが先行する。いちいち感想を挟まないでさっさと答えたらいい。

 

「お兄さん、始発なんて無いんですよ。電車じゃないんだから」

 

 だから、

 

「分かんないなぁ」

 

 俺は爪を立てて頭を掻いた。

 

「電車には始発があって初めて動き出す。同じ時間に同じ駅で止まり人はそれに合わせて動くでしょう。まさしく人為的です」

「……はあ」

「しかしね、人が操作できないものもあるでしょう。いいや、操作してはいけないものもあるんです。決まった駅があったら堪らんですよ」

「もうね、意味が分からない」

 

 運転手は、はははは、と声を高らかにして笑う。依然、タクシーは枯れ木に囲まれた一本道を突き進んでいく。愛する妻と両親へ心の中で静かに詫びた、どうやら面倒なことに巻き込まれたようだ、と。

 状況が好転することを半ば諦めたその時、運転手は穏やかな表情を崩さずに、俺に一つの質問を投げかけた。

 

「一番楽しかったことはなんですか?」

「楽しかった、こと?」

「生きていて一番楽しかったことですよ」

 

 今日会ったばかりの怪しい運転手に何故そんなことを言わなきゃならないんだ。俺はせめてもの抵抗で、口を噤んでみせた。

 しかし運転手はそんな俺の無礼に物ともしない。

 

「乗せた人には必ず聞くことにしているんです。教えて頂けないですか?」

「……野球、部活かな」

 

 別に目が合って気まずかったからではない。ちゃんと前を見て運転してほしかっただけだ。

 

「おや、野球部なんですか。これはこれは偶然ですね。私も野球部だったんですよ。まあ弱い学校で控えだったんですがね」

「俺はサードでレギュラーだった。しかも3番だ」

 

 もっと言うなら、県大会決勝で敗退という栄光の歴史もある。くしくも甲子園は逃したのだが。俺は鼻が高くなって運転手の目を見る。運転手は、俺の願った通りに前を見たままだ。

 

「じゃあ次の質問です」

 

 おい、少しは反応をしろ。

 

「一番悔しかったことは何ですか?」

「……野球かな」

「と、いいますと?」

「あと一歩で甲子園に行けたんだ。一回戦負けよりよっぽど悔しいと思うよ、俺は」

 

 はっはっは、と作ったように運転手は笑った。それから「大したもんですな」とミラー越しに俺を見ながら言った。予想はしていたが、運転手は面接官のように質問を続ける。

 

「最後の質問、いいですかね」

 

 今度は何だ。俺は首を縦に振る。

 

「人生で一番の思い出とは?」

 

 ぴたり、と思考が止まる。思い出とは何なのだと思う。楽しかったのも悔しかったのも、それは野球が当てはまる。だが一番の思い出かと聞かれると……試験問題のあやふやな解答のように中々答えが決めきれない。

 

「何でもいいんです。一番楽しくなくても、悔しくなくても。ふとした時に思い出す人生の思い出は何ですか? ゆっくりで構いません」

 

 俺は目を瞑って頭を捻ってみる。幼少期に小学生、中学生、高校生、大学生、それから社会人、色んな自分を思い返す。平凡でどこにでもある人生だと思っていたが、こうして思い返してみると酸いも甘いも揃っている人生で、我ながら悪くは無いと思う。

 その中で一番は何かと聞かれれば、やっぱりこれだろうか。

 

「嫁、かなぁ。嫁からの告白がそうかもしれない」

「ほほう、お嫁さんですか」

 

 運転手の目尻に線が増える。

 

「元々は会社の後輩でね。俺はお目付け役だったからデスクも隣りであれこれ教えていたんだ。まさか、俺も好きだったから告白されたときは大混乱。即答すりゃあ良い話なのに何日も待たせてさぁ、あんなに心臓を酷使したことは今までにないね」

「はははは! こりゃぁ良いですな! お兄さんはとっても素敵な思い出を持っていて、私は羨ましいですよ」

「そうかな」

「そうですとも。ここまで充実した人生も中々ありませんよ」

 

 俺は思わず頬肉がつり上がりそうになるのを堪えて、運転手から目を逸らす。窓の外を見ると、いつの間にか枯れ木が無くなっていた。色彩は一切変わることなく、褒めたくなるほどに無彩色に支配されている。

 頬肉が徐々に定位置へ戻っていく。それと同時に、俺は窓の外に違和感を覚える。

 

「ここ、さっきからなんか変ですよね」

「変、ですか? はて、どのあたりが変ですかね」

「どのあたり……」

 

 俺は嫁の告白という思い出などは遠い彼方に忘れ、違和感に代わる言葉を探す。不気味だとか、暗いだとか、抽象的な言葉ばかりが頭を過ぎっていき、どうも違和感の確証が得られない。

 俺を気遣ったのか、運転手はほんの少し速度を緩める。俺は窓の外に目を凝らす。

 

「さっきよりも一段と暗いな」

 

 運転手は、ですな、と適当な相づちを打つ。相変わらず街灯もない一本道をのろのろと進んでいくタクシー。道路標識も無ければ信号もなく、もちろんコンビニなんて気配すらしない。車線も見た限り無いし人っ子一人も見ない。乗り捨ててある自転車も民家も道路わきによく見かける捨てられたゴミすらも……。

 

 ここには何もない。人為的な何もかもが。

 

「ちょっと、やっぱりおかしいって運転手さん」

「ですから、何がですか?」

 

 何がって、何も思わないのか?

 

「まぁまぁ、安心してください。もうすぐで着きますよ」

 

 線になった目が俺に向けられる。胸がドクンと跳ね上がる。

 ――俺はどこに向かってるんだ。

 

「ちょ、戻ってくれ。これ以上進まないでくれ」

「御冗談を」

「冗談なんかじゃない! 俺をどこに連れて行く気なんだ」

「どこにって……お疲れですかな?」

 

 タクシーは止まることなく進む。伝わる振動のリズムが変わる。あるはずのメーター、エアコン、外の世界、それがここには無い。汗が頬を伝う。

 そもそも、俺はタクシーに乗っていないのではないか。

 

「このやろう……騙されねぇぞ。いいかこれ以上警告を無視したら監禁になるからな! 警察に突き出してやる! さあ早く戻れ」

「ちょっと、いきなりどうしたんですか? もう着きますから待っててください」

「だからどこに着くってんだ。戻れ!」

「どこって……」

 

 止めろ、はやく俺をもとの場所に戻せ。俺は繰り返し運転手にそう告げる。ところが運転手は戻る気配を一切見せない。それだけでなく、俺の声に反応することすら無くなった。何を黙っているんだ――そう言おうとした瞬間。

 

「うああっ」

 

 鋭く甲高い音が耳を突き刺した。何が起きたか理解できないまま、俺は助手席に額を打ち付ける。シフトレバー、ハンドル、ルームミラーと視線を上げていく。運転手は氷のような目で俺のことを凝視していた。

 間抜けにも、急ブレーキをかけられたことに気が付いたのはこの時だった。

 

「お兄さん、どこに行くか分からないですか?」

「……行先を言わないから、分からないだろ」

 

 運転手は分かりやすくため息をつく。視線が外された瞬間、俺は少しだけ深く息が吸えた気がした。音のない時間が1秒、2秒と刻まれていく。気味の悪い圧が車内に充満していた。

 

「ここまでです」

 

 運転手は運転席のドアを開ける。その言葉の意味が分かる頃には、既に運転手は外側から後部座席の俺を見下ろしていた。笑ってもなく、怒ってもない、氷のような表情が暗闇を背景にして浮かんでいる。

 

「うわあっやめろぉ」

 

 ドアが開いて1本の腕が俺の肩を触る。

 

「あなたにはこの車に乗る資格がありません。降りてください」

「資格だ? ふざけんな」

「さあ、早く。今すぐに降りてください」

「ふざけんなっ、元の場所に戻れぇ!」

「まったく……」

 

 肩を触る手は目を覚ましたように俺の襟首をつかみ上げた。俺よりも遥かに力強い、これまでに感じたことのない力で引っ張られていく。やっとの思いで手首を掴むが、なんの意味もない。だめだ、触れただけで解くのは無理だと分かる。

 

「行先が分からないで乗った人は久しぶりですよ」

 

 俺はヘッドレストにしがみつく。

 

「……離せ」

 

 上腕がじわじわと熱くなる。

 

「ご自身でお戻りください」

 

 ふざけんな――。

 襟首が引かれてワイシャツの生地が喉に食い込んだ。その瞬間、俺の身はドアの外に投げ出された。

 真っ暗闇の中で俺は宙に舞う。上も下も右も左も、息を吸っているのかどうかさえも分からずに。ここはどこなんだ、答えなど出ないのにそんなことを思った。

 

「またお会いしましょう」

 

 どこからか、運転手の声がした。随分遠くなったような声は黒い闇に吸い込まれるように消えた。

 ああ、俺は一体どこに行くのだろうか。

 

「いつになるか分かりませんがね」

 

 その言葉を最後に、運転手の声も、音も、暗闇も、全てが俺の前から消えた。

 

 

 

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 眩い光が視界を覆った。咄嗟に目を瞑る。理由は分からないが、俺はその光を求めてもう一度瞼を開く。煙が晴れていくように色が戻っていく。白だ、俺は今、真っ白い天井と向かい合っている。

 何やら頭上が騒がしい。男の声に女の声、そしてこの音は足音だろうか。

 ここは一体……。

 

「あなた」

 

 聞きなれた声がした。妻だ、妻の声だ。

 心臓が飛び跳ねて、俺ははっとする。視界の端にぼんやりとしていた影は、やがて輪郭が描かれていき色が入る。完成した見慣れた顔は、俺のことを見下ろしていた。しかし何かがおかしい……何があったと言うのだろうか。

 

「なんで……泣いてるんだよ」

「あなた――」

 

 蛙の潰れたような声で叫びながら、彼女は俺の両肩を掴む。なにか大切な、重大な何かが、俺の頭を過ぎっていく。

 

「ここはどこだ?」

「あなた……あなたの乗ったタクシーが事故を起こして……生きるか死ぬかだったのよ」

 

 まさか――俺は生死を彷徨っていたのか。

 首を回すとベッドのパイプが視界を阻んだ。その向こうの窓から、葉の落ちた木が目に映った。不意に、枯れ木に囲まれた道が脳を掠める。

 

「あぁ……」

 

 つま先から頭のてっぺんまで小さな寒気が走った。

 薄らいでいく記憶の中で、真っ黒い空と運転手の顔を捕まえる。黒色で塗りつぶした背景に氷のような表情が浮かび上がる。

 

『またお会いしましょう』

 

 あぁ、そうだ。俺はいずれ、あの運転手に会うことになるだろう。

 俺は深く、腹の底まで空気を吸い込み、そして吐き出す。

 

「いつになるか分からいがな……」