空を見上げると、青色をした小さな雪が降っていた。
「またかよ……」
僕は舌打ちをしてから、カバンから折り畳み傘を出して広げる。
5月病のような、気分が重たくて何に対しても意欲的になれない気分がここ最近は続いている。つい数日前、この症状のことを2月病と名付けたばかりだ。その2月病とやらは、恋人とのデートにおいても、例外ではなかった。
時間通りに到着したバスに乗車して、最後列の端っこの席に腰を掛けた。聞き取りにくい、男のしゃがれた声で発車のアナウンスがされる。平日ということもあって空席が目立っている。
単調なエンジン音と心地よい揺れが、眠気を誘う。いつの間にか、バスが次の停留所に停車していて眠っていたことに気が付いた。それでも夢の世界に片足を突っ込んでしまっている僕は、再び微睡みの中に引き込まれていく。それをひたすら繰り返して、いつの間にか終点の駅にバスは到着した。
バスを降りると、冷たい風が衣服を突き抜けた。マフラーに顎を埋めてから、窮屈に時計台の辺りを見渡して見る。まだ、着いていないみたいだ。僕は視界に入り込む青い雪から逃れるように、駅ビルの中に向かった。
僕と、恋人の優子は、互いにサービス業で勤めているため、休みはバラバラである。それでも、週に1回は会うという約束の元、僕らはなんとか予定を合わせて、顔を合わせる時間を作っている。しかし、お互いに忙しい中でノルマのように遊ぶことに対して、何も思わないことは無かった。
でも、そんなことを考えるのは失礼だ。それに、会ったら会ったで優子の存在は嬉しく感じるものだ。だからなんだかんだ言っても、優子と会う日は楽しみではあるし、ウキウキして胸は弾んでいる――つもりだったのだが。
「はぁ」
それなのに、この雪。僕の気持ちを代弁するような雪の色は、さっきよりも更に青くなっているような気がする。それはきっと、この雪の色のせいだと僕は思っている。
真っ白いはずの雪に不気味な色がつき始めたのは、3年ほど前からである。最初のほうはひどく驚いて、何度も目を擦ったり友達や実の親に片っ端から電話を掛けたりした。しかしまともに取り合ってくれる人は居らず、空よりも僕を心配する声が全てだった。幻覚か或いは夢なのか――最初はそう思っていたが、そんな心配もすぐに消え去っていき、色のついた雪は僕の日常になっていった。何かと腰が上がらない気分のときは青い雪が降り、嬉しいときや胸が弾んでいるときは黄色やピンク色をした雪が降った。
人はロマンチックだとか言うのだろうか。だといいのだが、僕にとってこの雪は意外と良いところが無くて、頭を悩ませる機会が多い。沈んだ気持ちを殺してまで前向きになろうとしたときも、飛び上がるほど嬉しい気持ちを抑え込んだときも、雪はいつも僕の本音を映し出すのだ。
そして今日、僕は優子と会うことにウキウキしていた――つもりだったのに、青い雪が降った。自分の本音に向き合っているというよりは、がちがちに縛られて本音から抜け出せないように捕まっている気分だ。
さて、そろそろ時間だ。意味もなく入った駅ビルを出て、時計台に向かう。
時計台の下で、優子は僕よりも早くこちらに気付いていたようで大きく手を振っていた。眩しいほどに黒いショートカットにすっぽりと収まった輪郭、その中ではくりくりとした目が存在感を放っている。子どもみたいにくしゃっと笑う顔を見ると、青い気持ちがほんの少し薄らいだ気がした。
「やっほっ」
「待った?」
「ううん。いまきたところ」
優子はスマホをカバンの中にしまって、僕に1歩近付いた。ぐいっと首の角度を上げて、僕の顔を見る。1秒、2秒、と時が経つ。まさか、こんな公衆の面前でキスをしようとでも言うのか。
「……なんだよ」
僕がそう言うと、ようやく優子は首を傾げながら声を出す。
「うーん、なんか浮かない顔してるね?」
「う……かない顔?」
「うん」
何かが頭の中にチクリと刺さった。正気を装って「そんなことないよ」と返す。
「本当に?」
「本当」
広場の脇にどかされた青い雪を、無意識に睨みつけた。それから優子の手を引いて、駅のほうへと歩きだす。
「行こう」
「うんっ」
浮かない顔なんかしてない。僕は楽しんでるんだ。
駅直結の商業ビルの最上階に、僕らが行きつけの映画館がある。古くも新しくもなく、どこにでもある規模の映画館。今日のデートプランは、ここでラブストーリーを観ることだ。
受付でチケットを買って、上映時間に合わせてシアターに入る。やはり平日の昼間だから、席はガラガラである。
「真ん中行こっ」
「そうだね」
僕らは最も見やすいであろう映画館のちょうど中央にあたる席に着いた。両隣に人の気配を感じずに映画を楽しめるのは平日の特権かもしれない。
「楽しみ楽しみっ」
これから観るラブストーリーは、隣りで肩を弾ませて楽しそうにしている優子の提案だった。この映画は数年前に流行った映画のリメイク版であり、女性を中心に人気が再燃している。僕自身は、然程興味が持てていない。
ストーリーは、よくあるお涙ちょうだい系統のものである。何の取柄も無い男と、病気を抱えた女子大生との愛の物語。前作は男目線で終始ストーリーが進行していたが、今作はヒロインである女子大生目線で展開される……らしい。
「……ちょっと、聞いてる?」
そして、リメイク前の映画を僕は既に観ていた。
「あ、あぁ。聞いてるよ」
「じゃあ、なんて言った?」
優子は瞬きをせずに、僕を見る。
「楽しみって――」
「ほら聞いてない」
あれ?と首を傾げると、優子は呆れ気味で言った。
「本当に、前作は見たことないの?って言ったの」
ああ、そうだったか。
「ないよ。楽しみだな」
せっかく楽しんでいるところを、水を差すわけにもいかない。
やがて、客数に不相応な轟音がシアターを埋め尽くした。一層暗くなった空間で優子の横顔を覗いてみると、キラキラと輝く瞳でスクリーンを見つめていた。
女が男と出会い、お互いに魅かれてついに男女の関係になる。しかし、女の体調に異変が生じはじめて、病気が発覚。悩んだ末に、隠し通すことを密かに決める。上映が始まってから、1時間くらいは過ぎたのだろうか。この席から見えるまばらな頭頂部は、一切の動きを見せない。皆、この映画に見入っているということだろうか。僕は、頭こそ動かさないが、さっきから何度も口の中であくびを殺しているところだ。
退屈で退屈で仕方ない。あくびに少し遅れて眠気が襲い掛かるが、力いっぱい目を見開いて追い出そうとする。だが、追い出そうとすればするほど、眠気はより強くなって纏わりついた。
眠気と闘い続けて頭が痛み始めた頃に、ようやくエンドロールがスクリーンに映し出された。ところどころで鼻をすする音が聞こえる。もしやと思い隣りの席に意識を傾けるが、そこからは何の音も聞こえなかった。
外に出ると雪はすっかり止んでいて、雲の隙間から太陽が顔を出していた。
「面白かったね」
「え?」
優子は不満そうな表情を浮かべて、僕を見る。目を合わせて首を傾けると、ぷいっと前のほうを向いてしまった。
「嘘ばっかり」
声色はどこか濁った感じだ。
「寝てたでしょ?いいよ無理しなくても」
「寝てないよ。寝そうには……なったけど」
「逆にごめんね。あたしの趣味に付き合わせちゃって」
気を遣った薄い笑顔を僕に見せて、優子はまた前を向いた。先に見える駅前の交差点は、夕方が近づいているせいか、幾らか交通量が増えた気がする。僕らは横断歩道で足を止め、信号が変わるのを待った。濡れた地面を走る車の音は耳障りが悪い。
「この次はどうしよっか?」
僕がそう聞くと、優子は驚いたような表情を浮かべて僕を見た。
「もぉ……忘れたの?西口のイタリアンって言った――」
「そうだそうだ。悪い悪い、忘れてた」
探し物を見つけた気分になる。
優子は、難しい顔をしながら僕の肩に触れた。
「あのさ、ごめんね。無理しなくていいよ」
「無理なんかしてないよ」
優子は、僕から視線を外さない。
「してる」
「してないって」
「映画だって、ご飯のことだって、ぜんぶ上の空だし。楽しく無さそうなのに楽しいって言うし……あたしといるの、すごいつまんなさそう」
肩に触れていた手は、いつのまにかコートの生地を握り締めていた。優子の向こうには、道路わきに積み上げられた青い雪が目に入る。
言われてみれば最近は、付き合いはじめの頃のように黄色やピンク色をした雪を見掛けることが少なくなった。少なくとも昨年の冬までは、優子と会う日には華やかな雪が舞っていたというのに。たとえ私生活で嫌なことがあったとしても、その雪の色で癒されたというのに。
「でも」
好きな人は好きな人だ。
僕にとって好きな人は優子だけだし、それは付き合いはじめの頃も今も、変わらない事実である。
「僕にとって好きな人は優子だけ――」
青信号の点滅を知らせる音が鳴る。いつの間にか、信号は変わっていたみたいだ。
「言葉ばっかりは上手いんだから」
優子は小さく笑った。
次に信号が変わるまでの時間が、とても長く感じた。
すっかり暗くなった夜道をバスに揺られながら帰っていた。映画館に居たときの眠気は一体どこに飛んでしまったのか、重力が逆さまになったように瞼を何度閉じてもぱっちりと開く。
しゃがれた男の声で、聞きなれた停留所が読み上げられる。
バスを降りるとすっかり冷えた空気が纏わりついた。駅に比べて人がいない分、寒さもひとり占めしてしまっているみたいだ。
――あたしといるの、すごいつまんなそう
信号待ちで優子に言われた言葉を思い出す。
「つまんなくないよ……」
優子が楽しみにしていたイタリアンのレストランでも、ぎこちない空気は滞っていた。まるで1枚の壁が優子と僕の間にあるように、優子も僕も言葉と表情を選んで会話をしているようだった。
でも、きっと大丈夫だ。
「好きな人は優子なんだから」
僕が優子のことを好きな気持ちは嘘でない。そして優子だって僕のことが好きなんだから、僕らは相思相愛で幸せものだ。ただし、少しだけ関係にマンネリしてしまっている。それだけが僕らを邪魔しているだけだ。
僕はそう思って、歩く速度を速めた。その時、視界に1粒の雪が映り込んだ。
空を見上げる。
「なんで……」
絵具で塗りつぶしたような、きれいな鼠色の雪が宙を舞っていた。時どき、青い雪を混ぜながら。
「くそったれ」
路肩に溜まった雪を思い切り蹴飛ばした。歩く速度はいつの間にか、いつもより遅くなっていた。
バスを降りると、ポカポカした陽気が身を包み込んだ。空は雲ひとつない快晴だ。今日はあの雪を見なくても済む――そう安堵していると、時計台のほうでスマホを触っている優子が見えた。今日は駅ビルには立ち寄らずに、真っ直ぐ時計台に向かって歩いていく。
優子から見えないように時計台をぐるりと回る。
「わ……びっくりしたぁ」
肩をトントンと触ると、優子は絵に描いたような驚きの表情を浮かべた。
「いま着いたの?」
「うん、いま着いたとこ」
おかしい。
僕の方程式では、驚いたあとは反動で笑顔がこぼれるはず。
「そっか」
「うん、そうだよ」
しかし優子の顔に笑顔はない。それだけではなく、どこか遠い目をしていて口から出る言葉の種類も少ないような気がする。もしかして、まだ先週のことを根に持っているのだろうか。
「今日は、どうしよっか」
お茶がしたいとか、洋服が見たいとか、きっといつもならポンポンと言葉が飛び出てくるはずだったが。またしても優子は、どこか虚ろで期待をしていなかった反応を見せた。そして、2人の間に街の喧騒が目立ち始めた頃、優子は薄く口を開いた。
「ここでいい」
「……え?」
「ここで」
優子の上目遣いが突き刺さる。
いくら鈍い僕でも、優子から滲み出る異様な雰囲気に胸が萎んだ。
「あのね」
嘘だろ。まさか――。
「別れよ?」
頭の中の処理が追い付かず、言葉を失う。
「あたしたちって、きっと性格が合わないと思うし早いほうがいいと思うの」
息を吹けばたちまち消えてしまうそうな声が、耳から胸に届く。それなのに、その声はどこか芯が強くて簡単には折れない奥深さがあった。
みぞおちの奥で、脈が素早いリズムを刻んでいた。
「な……んで」
「ごめんね」
「なんでもする……なんでもするからさ。まだ優子とは――」
「ごめん。もう決めたの」
――なんで。
「一方的に決めても無駄だぞ。2人のことは2人で決めるんだ。優子が何を言おうが、こっちには分かれるつもりなんてないんだ。そうだ、勝手に決めるな」
「……ごめんね。付き合ってから3年間、色々あったけど楽しかったよ」
「謝ったって無駄だ。別れないから、絶対に」
「ごめんね、もう決めたから」
優子は下を向いたまま、僕の顔を見ようとはしない。そして顔をようやく上げたかと思いきや、作ったような笑顔で僕に言った。
「今までありがとう。さようなら」
そんな――。
「あんまりじゃないか……」
僕の声に振り向くこともなく、優子の背中は遠ざかっていく。
こんなこと一方的に決めるなんて、あんまりじゃないか。
時計台の下に僕はひとりで居る。そう思うと急に現実が波のように押し寄せてきて、涙が込み上げる。思い切り見上げた空は、もう快晴ではなかった。みるみるうちに灰色をした雲が、青空に蓋をした。
灰色に支配された空を、僕はぐっと睨みつけた。
ぽとり、と頬に冷たい感触が広がる。
「ふふ……」
何故だか笑いが込み上げてきて、僕は俯いた。視界の隅っこで、急いで駅に向かう人たちの足が見える。
「たまには、気の利いたことするんだな」
突如降り始めた大粒の雨は、顔じゅうを濡らして涙を洗い流した。
もう帰ろう――そう思って僕はうしろを何気なく見る。
大雨から逃れようと走りゆく人々の中、横断歩道で信号待ちをする優子は、ひとりだけ傘をさしていた。
僕はそれから、色のついた雪を見ていない。