彼女と僕の“音”

f:id:msnipty:20191206212107p:plain

 

 

 

 午前中の終わりを示すチャイムが鳴り、腹を空かせたクラスメイトたちは食堂へ駆けていく。僕は食堂とは反対に、最上階に位置する音楽室へ弁当箱を持って向かった。

 息を急がせながら階段を上がり終えると、廃墟のように静まり返った廊下が目の前に現れる。微かに遠くの食堂の騒音が聞こえるくらいだ。僕は意味が無いのに足音を殺しながら、音楽室の前まで歩き、扉を開けた。今日は僕のほうが早いだろう――そう思ってたのだが。

 

 チャイムが鳴ってから間もないのに、彼女は窓際の席に座って風を浴びていた。

 僕に気が付いて、彼女は髪を靡かせながら「おつかれぇ」と言った。

 

「今日は僕のほうが早いと思ってたのに」

「あはは、残念でしたぁ」

 

 彼女は上の歯を見せて笑った。僕はいつものように彼女の元に向かう。

 

「お腹は空いたかい?」

「もっちろん」

「相変わらずだね」

 

 僕は持ってきた弁当箱を彼女が座る机の上に置いた。彼女は「今日のおかずは?」と聞くが、分からないとだけ答えた。本当に開けてないから分からないのだ。それから僕は、彼女の隣りには腰を掛けずに、ホワイトボードの前にでかでかと置かれたグランドピアノまで歩く。

 

「ねぇ、聞いた?来週の面談、副担任も同席するってぇ」

「別に良くない?」

「私はヤダ」

「ふうん」

 

 僕は適当に相づちを打って、ピアノの蓋を開ける。手入れの施されている、綺麗な鍵盤が露わになる。そっと触れてみると、滑らかな感触が指を伝ってきた。

 

「ねぇ、聞いてないでしょ」

「ううん。聞いてるよ」

 

 彼女は少しだけ頬を膨らませて、文句をつける。

 

「絶対聞いてないもん」

「面談でしょ。高2の夏って早いやつは受験も考え始めるから、学校も真剣なんじゃない?」

「……なるほどかぁ」

 

 僕は椅子に腰を掛けて彼女のほうを見る。しかし、彼女はこちらを向いていなくて、頬杖をつきながら窓の外を眺めているようだった。「受験ねぇ」と呟く彼女の横顔は、どこか物憂げな様子である。

 彼女が眺めている窓の外はいかにも夏らしい陽気で、夏の日差しを直に受けたグラウンドは黄土色に輝いていた。空は塗りつぶしたような青さで、雲がひとつもない。そんな景色を、まだ数の揃っていない蝉が鳴き声で彩っていた。

 彼女は思いついたような顔で、僕を見た。

 

「月光かな」

「月光?……昨日と同じじゃん」

 

 彼女の言う月光は、ベートーベン作曲の『ピアノ・ソナタ第14番「月光」第1楽章』のことである。昨日もここで彼女は、僕に月光をリクエストした。よほど気に入ったのだろうか。

 

「同じでも月光が良いの」

「いやでも……重くない?夏だってのに」

「あはは、それが良いんじゃん」

 

 そう、僕の月光は重たいのだ。それは僕に弾きこなす技術が不足しているからだと自覚している。ベートーベンの死後、ルートヴィヒ・レルシュタープが言ったように、月光は“スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう”な曲なのだ。食べ物に例えるならば、高級なフレンチとかその類の上品さを連想するだろう。なのに僕は、まるでどってりとした揚げ物にしかならないのだ。

 それでも、その重さが良いと言うのは、彼女の優しさなのだろうか。

 

「もっと、こう……トルコ行進曲みたいな――」

「それは今度」

 

 僕の言葉は遮られる。

 

「今日は月光の気分なの。それに何を弾いてもらっても1曲でお腹いっぱいだから、重たくても軽くても一緒」

「……なんかひどい言い方だな」

「えっちがうよ。ごめんね、そういうことじゃなくて」

 

 彼女は目をパッチリと開けて、引きつった笑いを見せた。

 

「いいよ、重たいのは自覚してるから」

「違うの。本当のことを言っただけなの。私にとっては、お腹いっぱいって褒め言葉なんだよ。その曲だけで満足しちゃうんだもん」

「時どき、嬉しいこと言ってくれるよね」

「本当だもん。ね、お願い」

 

 そして、この顔だ。

 そんなキラキラした瞳で見つめられたら、断れるわけがないだろう。僕はしぶしぶ――でもないが、指を鍵盤の上に構えた。視界の端っこで、彼女の待ち焦がれた視線を感じて、呼吸を整える。

 

 すこしだけ軽くしようか、とも思ったが、そこは彼女の言葉を尊重してありのまま弾くことにする。

 

「いくよ」

「うん」

 

 鍵盤に触れると、小さく音が現れる。

 いつもこの音が1番新鮮で、僕自身は1番好きな音だ。それはきっと、僕だけでなく彼女も同じことを思っているだろう。指先に任せて、僕は鍵盤をはじいていく。

 音は一瞬だけ現れて、すぐさま跡形もなく消えてしまう。しかし、もうこっちも慣れたものだ。僕は少しでもその余韻を伸ばしてあげようと、必要以上にペダルを踏んだ。こうすると、単なる音に味わいが出るような気がするのだ。

 

 目を瞑って、ルツェルン湖の月光の波を思い浮かべる。

 波の上で小舟がゆらゆらと揺られていて、僕と彼女はそれに乗っている。笑っているのか泣いているのか、無表情なのか、それは分からない。ただ、月光の波に揺られて暗闇に溶け込んでしまいそうな、朧げなうしろ姿だけが見えた。

 

 頭はすっかりルツェルン湖の中で、弾き込まれた指先は音を拾い上げるのだが、やはり拾い上げた音は一瞬で消えてしまって波の中に消える。月まで届くことがない。

 僕は気が付いた。

 そうか、ここは昼休みの音楽室だったんだ。

 

 その事実に改めて気が付くと、僕の感情はさらに昂っていく。もっとだ――腹の底から沸き上がる何かを、僕は鍵盤にぶつける。

 暗闇の中の月は綺麗なクリーム色をしていたのに、やがて赤色を帯びていき、次第に茶褐色になっていく。お世辞にも上品とは言えない、くすんだ色だ。やっぱり僕が弾いても、どってりとした揚げ物にしかならない。そして、再び空間に静寂が訪れた。

 

 それでも、気持ちよさそうな彼女を見ていると、僕は嬉しくなるんだ。

 ――1曲でお腹いっぱいだよ。

 

 あぁ、そうだな。そりゃあ言われるわけだ。

 僕はピアノの蓋をゆっくりと閉じて、彼女の元に向かう。いつも、こうして眠ってしまった彼女に僕は歩み寄るんだ。

 腕に頬を乗せて突っ伏すように眠っている。頬が潰れたその寝顔は、いつ見ても可愛らしくて触りたくなってくる。僕は今日もぐっと欲望を堪えて、机に置いた弁当箱を手繰り寄せた。僕のお昼ご飯はようやく始まる。

 

 今日のおかずはなんだろうか。

 蓋を開けると、色とりどりなおかずたちが目に飛び込んできた。卵焼き、ウインナー、ほうれん草の和え物、そして大好物のハンバーグ。僕はこの冷凍食品であろうハンバーグが大好きだ。箸で割ってから、半分になったハンバーグを口の中に放り込む。

 

 ハンバーグのうま味が頬をつつく。美味しい、とても美味しいと思う。でも、ひとりで食べるご飯はやっぱり寂しい。この瞬間だけは慣れてくれない。

 

「君と食べたいな……」

 

 寝息を立てる彼女を見て、思わず本音を漏らした。

 君とご飯が食べられれば、どれだけ幸せなんだろうか。それはどんな未来が起こっても、きっと叶わないのだろうけど。君がもしこのハンバーグを食べたら――そんなことを夢見ながら、残りのハンバーグを口に入れた。

 

 “音食い”なんて言葉は、差別用語みたいに聞こえるから使いたくない。

 でも、できれば僕も“音食い”になって、君と同じ音が食べたい。一緒に向かい合って、笑いながら「これ美味しいね」って言って、僕が弾いた重たい月光が食べられたら幸せなんだろう。

 

「お腹いっぱい……」

 

 ひと筋の涎を流しながら彼女は呟いた。

 僕はそれを人差し指で拭って、舐めてみた。