彼女と僕の毎日

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 緑が一面に広がる河川敷を望みながら、地平線まで続く一本道を歩く。その限界には、オレンジ色の炎が燃え上がっていた。照明を受けたように夕陽色に染まった彼女の横顔は、少しだけ虚ろに見える。

 

 繋いだ手に力は無く、きっと僕が離したら重力に負けてだらんと下がってしまうのだろう。だから僕は、しっかりと彼女の手を握って歩く。

 

「そこにベンチがあるから休んでいこう」

 

 小さな丘を下ると、赤色をしたベンチがある。グラウンドに向き合うように置かれたベンチは、長い年月、雨風を浴び続けたような褪せかたをしている。

 彼女は「いいよ」と言った。渇いた手と対照的で、声色は朝に比べて幾らか潤いを含んでいた。僕は嬉しくなって彼女の顔を見る。すぐにその視線に気が付いて、彼女の表情に血色が戻っていく。

 

 驚いたのか、彼女は上ずった声を出した。

 

「え、なに?」

「ふふ……なんでもない。行こうっ」

 

 彼女の手を引いて、原っぱの丘を下っていく。舗装されていない坂は、ところどころに凹凸があって油断していると足が持っていかれそうになる。ちょうどこの時、彼女はいつも手を握る力を強めるんだ。それは今日も例外ではなく、ぎゅうっとした力が指先に伝わってくる。

 じんわりと体温が伝わってくるころに、僕らは赤いベンチに着く。目と鼻の先くらいの距離でしかないが、僕はこの小さな移動がとっても好きだ。

 

 僕らは夕陽に背を向けるように、並んでベンチに腰を掛ける。目の前に広がる河川敷には、背の高い草がずらっと並んで立っていて、その先には対岸の建物しか見えない。せめて川が見えてくれればいいのに――そう、いつも思う。

 だから僕は、“一応”聞いてみるんだ。

 

「川まで行ってみない?」

 

 でも、きっと。

 

「え?」

 

 困った顔を挟んでから言うのだろう。

 

「ここでいいよ」

 

 ほら。でも、大丈夫だ。分かっていたことだから。

 僕らは家に帰る前に、必ずここで小一時間ほど言葉を交わす。学校で起きた出来事とか、今夜は何が食べたいのかとか、そんなことを。ほかの人が聞いたら笑っちゃうほどつまらない話題かもしれないが。

 

「カレーかな?それとも肉じゃが?」

「なんだろう」

「それとも、パァッと焼き肉かもしれないよ」

「パァッと焼肉かぁ」

 

 でも、こんな時間が僕らにとっては大切なんだ。

 だから僕は、しつこく今晩のおかずを彼女に聞き出す。

 

「じゃあ、カレーと焼肉だったら、どっちがいい?」

「んー……分からないや」

「分かんないかっ。ははは」

「つまらなくてごめんね」

 

 彼女は申し訳なさそうに、視線を落とす。分かりやすく肩の位置が下がって、小さい身体がもっと小さくなった。つまらなくないよ、と声を掛けようか。めっちゃ楽しいよ、とおどけて見せようか。それとも、低くなった肩にそっと手を置いてみようか。と言うよりも、手を置きたい。置きたいのに――それができない。

 

 動きかけた手は、吸盤のようにベンチに張り付いてしまう。僕には、勇気が出ないんだ。

 僕は少しだけ気まずくなって、話を逸らしてみた。

 

「明日は、学校に行って、それから何がしたい?」

「何がしたい、かぁ……」

 

 彼女は視線を上げて、首を傾げて、考えているようだ。そして遠くの電車の音が聞こえ始めた頃、静かに口を開いた。

 

「また、夕方にここに来て、ベンチでゆっくり話がしたいかな」

 

 そう言って、彼女は僕のほうを見て微笑んだ。

 触らなくても心臓が力強く脈を打ったのが分かった。

 

「本当に?それ本当に?」

「本当だよ」

 

 思わず「よっしゃあ」と飛び上がりそうになったが、歯を食いしばって堪える。彼女の見せる力の抜けた微笑みに、嬉しくなって胸がはじけそうになった。もっと笑顔が見たい。贅沢かもしれないけど、もっと笑顔が見たい。

 だから僕は、彼女に声を掛ける。

 

「ちょっと待ってて」

「え?」

 

 目を点にする彼女を置いていって、また原っぱの丘を駆け上がっていく。登り切ってから振り返ってみると、まだ不思議そうな表情を浮かべて彼女は僕を見ていた。念を押して「すぐ戻るから」と声を掛けた。

 

 彼女の返事を待たずに、僕は河川敷の反対側に敷かれた道路まで、走って下っていく。下り切ったところにある横断歩道の押しボタンを押して、その場で足踏みしながら青信号になるのを待った。こういう時の待ち時間はなんでこんなに長く感じるのだろう。自動車用の信号機が黄色になり、赤になる。そして歩行者用信号機は青色に灯った。

 

 横断歩道を走って渡り、渡った先のマンションのエントランスに僕は入った。すぐのところにある、青い自動販売機に500円玉を入れる。そして彼女の笑った顔を想像しながら、最下段の右端にあるサイダーのボタンを押した。がらがら、と勢いよく落ちてきたサイダーを僕は順番に取り出して、大事に抱えた。

 

 彼女のぶんと僕のぶんのサイダーを、揺らさないようにして来た道を戻る。まるで彼女を抱え持つように、しっかりと胸に抱えた。丘を登ったところで、心配そうな顔をした彼女と目が合った。未だ僕の行動を掴めていない彼女の顔は、何とも可愛らしくて胸の奥をくすぐってきた。

 僕は走って河川敷まで下りていって、ようやく彼女にサイダーを手渡す。

 

「お待たせ。ほら」

 

 しかし、どうしたことか。僕が差し出したサイダーを彼女は受け取ろうとしない。

 

「サイダー、好きでしょ?」

「えっ、でも」

 

 なんだ、遠慮してんのか。しょうがないなあ。

 

「いいの。1人じゃ飲みづらいから、飲んで」

 

 彼女はそっと手を出して、僕のサイダーを受け取った。

 

「ごめんね。ありがとう」

 

 笑顔どころか困らせてしまったみたいだ。

 それでも、彼女はキャップを開けてひと口、サイダーを飲み込んだ。

 

「美味しい。ありがとう」

「……ううん」

 

 結果が良ければなんでもいい――そう思いながら、僕はくるくるとキャップを回した。

 2人のサイダーがちょうど無くなったころ、街に明かりが灯りはじめてきた。

 

 僕が「もう時間だね」と言ってベンチから立ち上がると、彼女も合わせるようにゆっくりと立ち上がった。1日がもし48時間だったら、24時間一緒に居られるのに。帰りたくない気持ちに蓋をしたつもりなのに、ちょっとした隙間からこんな間抜けなことが浮かんでくる。きっと彼女は、そんなことは考えていないだろう。

 

 僕らは来たときと同じように手を繋いで、丘を上る。上りは意外と下りよりも楽で、それは手を握る力で彼女も同じことを思っているのが分かる。だから、たとえ楽であっても僕は上りのほうが嫌いだ。

 

 そしてまた僕らは夕陽に向かって歩く。ついさっきまでぼうぼうと燃え上がっていたオレンジ色の炎は、迫りくる夜にその居場所を奪われそうになっていた。そのせいか、時どき吹き付ける風が、随分と冷たくなっている。

 どこからか飛んできたカレーの匂いが鼻を抜ける。

 

「うまそうな匂い」

「……思った」

 

 彼女は鼻を突き出すようにして、匂いを取り込んでいるような動きをしている。僕は道路の向こう側を指差して、「あそこからじゃないの」と言ってあげた。彼女は手のひらで仰ぐようにして空気を手繰り寄せている。

 

「ねぇ、分かった」

 

 突如、彼女が足を止めて僕を見た。

 

「え?何が?」

 

 驚いたままの僕を欺くような笑顔で、彼女は言った。

 

「焼肉かカレーかだったら、カレーが食べたい」

 

 それが数十分前にした会話の回答だと気が付くのに、少し時間が掛かった。唐突な、ここ最近で1番の笑顔だった。

 

「そうか。今日カレーだといいな!」

「いいなあ」

 

 彼女の言葉はいつも以上に朗らかで、横から見る表情も穏やかで柔らかい。僕の手を握る力も強くなった気がした。彼女から手に伝わるその力が嬉しくて、僕もぎゅうっと、握る力を強くしてみる。しかし、これは失敗。応じる気配は見られない。

 でも、いいんだ。たとえ手が応じていなくとも、こんなにも素敵な表情をしているのだから。

 

「なに?」

「いや、なんでもないよ」

 

 きっと僕らは、昨日よりも進歩した。その証拠に彼女へ言ってやりたい。

 ほら、昨日よりも空が暗いんだよ――。

 

「すこし急ごうか」

「うん」

 

 門限の時間が気になりはじめて、僕らは手を繋いだまま歩く速度を速くした。

 明日はどんな君に会えるのだろうか――。

 

 

 

 

 毎朝、僕は早めに家を出て彼女の家まで迎えに行く。

 玄関のチャイムを押すと、インターホン越しに彼女のお母さんが「ちょっと待っててね」と言う。その言葉に裏切られたことはなく、今日もちょっとだけ経ったころに玄関のドアが開いた。

 

「いってらっしゃい」

 

 お母さんに見送られながら、制服をきっちりと着こなした彼女は僕と対面する。

 そして毎朝、同じことを僕に言うんだ。

 

「あなたは、誰ですか?」

 

 だから僕も、同じように言ってあげる。

 

「君と付き合っているクラスメイトだよ。一緒に行こう」

 

 いつからか、彼女は1日ごとに記憶がリセットされるようになった。

 さて、今日は昨日よりも仲良くなれるかな。

 僕が手を差し出すと、彼女はおそるおそる指先に触れた。